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  映像研究

はじまった夢のようなフェスティヴァルはこうして夢のように終わる。

 
・11月28日の朝は起床とともに校庭の焚き火へ向かって朝日を待ちながら歓談。そしてピザ窯用の薪を燃やしながら、焚き火を囲んで「お楽しみ会」の余韻のままに合唱。11月後半の藤野はきっと寒い日ならば0℃近くてもおかしくないはずだけれども、この日に限っては晴れていてもそれほど寒くなかった。ちょっと驚くほど寒くなるのというのもイベント的には面白かったけれども、実際的には嬉しい誤算。校庭に張られたテントからむっくりと起きだして来る人たちに「おはよう」の挨拶をしながらピザ窯の準備。火のこと、薪のこと、窯のことをまた少し知ることができた。焚き火で炭のようになった薪を窯に放り込んで窯の温度を上げる。ルーティンだけど決して単純ではない作業は楽しい。その合間の歌唱も楽しい。『木綿のハンカチーフ』などを合唱。校内放送で目覚まし放送なども遊びの派生。



・そして起き上がってきた人びととともに9時からピザ窯でピザを焼く。これは朝食の準備。あるいはワークショップ。しかしファシリーテーター(冗談で呼んでみるなら)すらも事情を完全に把握してないWSなので、みんな自分なりのピザ窯の使い方をする。これもまた解釈。食べるまでがドラマティック。そして気がつけばファシリテーターが全く予期していない「たね」を生地でくるんだ「大きな餃子のような何か」とかも出来上がっていて、これは解釈というか「アレンジ」。その後朝食がそのまま昼食になったようなものを食しつつ、全員で一斉に片付け。こうなってくるとフェスティヴァルも佳境。夢のような時間と空間が元の状態に戻ることは切なくもあるけれども、それ自体が結構良い。終了間際の「物々交換スペース」も青空バザー的な様相になって一時盛況。



・はじまったフェスティヴァルはこうしてあっという間に終わる。あっという間の24時間。真夜中ではなくて本当に魔法が解けるのは正午の12時。ちょうど12時のチャイムが鳴る頃には「校庭で集合写真を撮影します」という最後の校内放送。そして集合写真の撮影。最終的に49名が来ていたようなのだが、朝まで残っていた約40名で集合写真。夜に早退したお友達は右上に掲載されることになるだろう。「集合写真を撮影するフェスティヴァル」というところが重要だ。いかに小規模であれ「フェスティヴァル」は大抵、全員の集合写真といったものは撮影しない。でもこのフェスティヴァルでは撮影するのです。まるで当たり前のことのように校舎をバックにして撮影。撮影したならばフェスティヴァルは終了。「またね」と言いながらそれぞれの帰路へ。



・帰路は帰路で晩秋〜初冬にかけての紅葉を仰ぎながらフェスティヴァルの珍プレー・好プレーを回想。個人的には当面のあらゆる判断は保留。そして考えようと思う。考えてしまうだろう。誰もが誰か言う、うまくいこうがいくまいが言う言葉「やってみてわかることがある」というのはしかし今回に関しては本当に本当。やってみるもんだなぁ、フェスティヴァルだって。まずは自分が面白かったことと、その次に自分が特に「この人に面白がって欲しいなぁ」と思っていた人たちが面白がってくれたっぽかったことが何より良かった。きっとそれが「人が集う」ということのコアにある気持ちで、それがあればその集まりは大丈夫なのだと思う。たぶん。



・そしてまた希望としては「アレ何か変なイベントだったけどある意味面白かったかも」というようなかんじの人が「あれが面白かったんだったら、これも面白いかもな」というかんじで「これ」を発想することに何かの可能性がある。それは「アレンジ」ということで、そして「クリエイション」ということで、自分も沢山の「あれ」を見たり聞いたり体感したりした結果としてこのフェスティヴァル『マウンテンのミーチング』を構想したのだから、そのような別のアレンジが生まれるのが本当に理想的なことだと思う。「あれ」と「これ」の間にある過去と現在について、考えることもやることも沢山ある。とりあえずアーカイヴの整理。読書。そして文章を書くこと。そういえば週末の秩父夜祭にも行こう。