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  映像研究

七月の夜と朝と夕方

 
・7月16日。木曜日。夜。国立の名店ニチニチにて泡山ことSさん(夫妻)と会食。何だか久しぶりにこのように緩やかな時間の中で食べ、飲み、人と語らい合ったなぁと思う。カルチャーとサブカルチャーについての00年代の定点観測的トーク(view from 西東京)。あるいはどういう話の流れだか?80年代後半のプロ野球のマクロな固有名詞について異常に盛り上がる。唐突に「『ズーンイン朝』のプロ野球のコーナーの密度」の強烈な印象がフラッシュ・バックする。Sさんのブームに乗っかるかたちでビールの後にはハイボールも数杯飲む。夏の夜は更ける。



・7月17日。金曜日。朝。八王子経由で某美術系学校へ、半分仕事で半分仕事ではない理由で出かける。チーム同僚と合流したのち、ひょんな流れで某イベントにて某著名なアニメーションスタジオの某(某ばっかりだ)映画監督の講演を聴講。200%完全に何の期待してなかったものの、予想に反して200%完全に面白かった。キャラクター論、みたいな話は全くなくて、唐突に始まった「60年代後半の社会運動/労働環境とアニメーション製作」みたいな話に色んな意味でハラハラしつつ(大学生はひいてるのでは?とか)しかし非常に楽しく拝聴する。


・夜は場所を移して業務系ミーティング@居酒屋in国分寺。好き勝手に飲食しつつ放談しつつ夏のスケジュールをチーム(NEW)同僚と調整。薄々感づいていたけれども、この夏に限っては完全に季節労働者のごとく、ライク・ア・馬車馬(何も言えなくて…)というくらい?完全に働かなくてはいけない。けれどもまぁそれもたまには良いだろう。こういう労働も自分にとってはある種の「修験道」であり「お遍路」なのだと思う。思おう。そして思わざるを得ない。業務のアフター・スクールは毎日「何がしか遊ぶ」宣言をする後輩に触発される。



・7月18日。土曜日。夕方。新宿スタート水道橋経由の渋谷方面へ。本屋で本を購入しながら移動。眩しいくらいに夏。半ズボン。でも汗だく。ふらふらしながら給水ポイントとしてのドトール・コーヒーだって経由して、最終的にはUPLINKのイベントを観に(聞きに)行く。

トークレディメイドとしての身体」
飴屋法水(演出家・現代美術家)×大木裕之(映像作家・現代美術家)×木村覚(美学・ダンス批評)×大橋可也(振付家
上映:『明晰の鎖』映像版(監督:古屋和臣)
パフォーマンス:多田汐里+ゾルゲルプロ
写真:鵜飼悠・高橋恭司


・某SNSの高橋恭司コミュで知って勢いに任せて予約したものの、あらゆるダンスについて確かな知識は何も持っていない自分のような者にはちょっと敷居が高いのかなぁと思いつつも、結局単純に面白そうなので行ってみる。結果、会場に展示してあった写真は予想通りかっちょ良かったし、何よりもトークレディメイドとしての身体」は、その(疑わしさ全開の)コンセプチュアルなタイトルに反して非常に普通に面白かった。そして突然(これはそれほどトークの内容と関係ないことだけれども/全く関係なくもないけれども)、自分がアニメやマンガやゲームなどの、いわゆるキャラクター的な表現に興味を持ちづらい、その理由がわかった気がした。考えてみればそれはどうしたって人間のからだに興味がありすぎるからで、そのようなこと(?)をトークの中で飴屋法水という人は、「(身体の)情報量の多さ」という言葉で話していたように思う。


・カラフルな頭髪から動物風の耳がどのような角度で生えているか等々を分析するくらいなら、パンツの丈1㎝を気にする人間でありたいと思う。これはこの夏の裏テーマ(夏の自由研究としてのファッション・スタディーズ=身体論)でもあるのです。