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  映像研究

読み終わって、ふと考える月曜日(多分ネタバレなし)

 
・雨の月曜日。降ったり止んだりの月曜日。雨を理由にというわけではなく休日である月曜日。先週半ばから「BOOK1」をこつこつと読み進めてきた村上春樹1Q84』をここぞとばかりスパート?をかけて「BOOK2」まで一気に読み終わる。自分としては珍しく集中して数時間本を読みつづけて、気がつけばすっかり午後3時。体中が痛いけれども、そういった点ももまた休日らしくて良いじゃないかと思う。


・それにしても小説というもの自体が相当に久しぶりだったこともあって、新鮮にさくさくと読み進められた。そして「30手前の予備校講師で週に半分しか働いてないってコレ、人ごととは思えないでしょう」と、実家の母親(この数年ですっかり一人前のハルキストになった)にオススメされて読んでみたわけですが、そういったプロフィール的な事柄はさておいても(人妻のガールフレンドもいないですし)、何というか初めて村上春樹の小説の中に「自分にとって関係のあるテーマ」を見つけられたような気がしないこともない。あるいはしかしそのように思えることが「現代的な文学作品」であることの証拠であったりするかもしれないとも思ったけれども、しかしそういう意味でならきっと村上春樹という人は(わからないけど多分)いつだって「現代的な文学作品」をドロップしているような気もして、にも関わらず例えば前作の『海辺のカフカ』とかを読んだときには、自分はしかしまったくそのような感想は持たなかったのだから、やっぱりこれはこの小説を読んでみた、個人的な感想の持ち方なのかもしれないと思う。



・そしてそれはきっと、最近気になって読んだ本やあれやこれやにはほぼ必ずと言っていい程に「コミュニティ=共同体」という語句が現れてくるという2009年の自分にとっての実感なのだと思う。特に宗教的なものでなくとも、社会のことであれ、政治や経済のことであれ、時には芸術のことであれ、あるいはまた山登りやら自然やらについてであれ、かなりに無意識に(つまり普通に/実感を伴って/可能なかぎり丁寧に)物事を考えている時にプロセスとして現れてくる「コミュニティ」とか「コミューン」というものの意味することとは何だろうか。例えば古本屋の均一コーナーで拾ってきて今手元にある、ちょっと面白そうな『阿Qのユートピア―あるコミューンの暦 (1978年)』という本を辿れば、また別の『阿Q正伝』という書物に行き着くようなのだけれども(どちらも読んでないので詳しくはわからない)、そういうものを読めば何かが理解できたりするのでしょうか。


・多分色々なところで色々な人が言ったり書いたりしていることだとは思うけれども『1Q84』は「小説の中で<小説>を書く」「小説の中で書いた<小説>の内容に従って小説が展開したりもする」という意味で「メタ・フィクション」であると言えると思うのだけれども、それとはまた違ったレベルで(ここからは完全に個人的な読み取り方ですけれども)「小説の中の<小説>が、その内容によって小説の中の世界の『何か』を押しとどめる」という構造が、そのまま「現代に著された『1Q84』が、その内容によって現代の社会の『何か』を押しとどめる」ことを目的としている(という表現が強すぎるならば「想定している」)ことと対応するように思えて、そういう二重の意味での「メタ・フィクション」であるならば、それが「自分にとって関係のあるテーマ」だと思えたきっかけのようなものかもしれない。


・そしてその『何か』について考えてみたのならば、「資本主義」という言葉が普通に(頻繁に?)使われる程度には相対化される現在、「資本主義」的なものに「対抗」まではしなくとも、そのような状況への対処として、国や自治体以外の「(任意の)コミュニティ的なもの」「(任意の)コミューン的なもの」(をこのような語句で/あるいは並列に/まとめることは雑だとしても)が生まれてくる必然性を理解しつつも(あるいはもしかすると時と場合によっては、そういったものが有益であると考えられなくはないことを認めつつも)、ある地点でそれが『別のもの』になってしまうということがあるということ、そしてそれは少なくない場合において『(客観的に見れば良くない)別のもの』になってしまうということ、しかしそれと同時にその『別のもの』には完全に体系化された思想があるのであって、それを克服しようと考えるならばその体系を辿っていくことで理解することが必要になるということ。


・あるいは逆に言うならば、それは順に辿っていけば理解出来るような/出来てしまうような事柄なのかもしれないとも思う。そういう意味で主人公のひとりが『数学』やあるいは『音楽』の面白さを極端に「体系的に」語ったり、もうひとりの主人公が『整体のようなもの』を通じて人間のからだと関係したりする部分は、その事柄を越えたスリルがあるように思えるし、そもそもそういった事柄が「何かを理解する道筋の具体例」なのかもしれない。そして多分『小説を書くこと』はそれらと似ているようだけれども、微妙に違うものなのかもしれない(「〜かもしれない」ばっかりになった)。



・そのような事柄を、つまり「自分にとって関係のあるテーマ」を考えながら読むことは、あるいは読み終わってあれやこれやについて考えることは、楽しいけれども結構大変だ。しかしもちろんそのようなことを考えずともエンターテインメントとしても大変面白かったですよ(宣伝みたいになった)。お気に入りのキャラは「マクルーハンを読むセクシャルな婦人警官」ですし、1984年が舞台でありつつも、空気感は2009年的であるものだから、微妙にリバイバルホイチョイ・ムーヴィーみたいなイマジネーションが立ち上がるのもまた楽しかったりする。ちなみに巷ではすっかり「BOOK3出る説」が有力なようですが、どうなのでしょう。全然わかりません。しかしもしも出るのならば、しばらくこの物語のことは忘れて、その間に(全く望んでいないようなことも含めて)きっと様々な出来事が起こって、それで「BOOK3」を読めたならば、また別の事柄が考えられて良いかもしれないと思う。



1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 2