&

  映像研究

いろいろなことが新しい(ことがしかし全て無条件で良いとは思わない

 
・不思議なくらいあっという間に過ぎ去っていった先週末から週明け。SさんことHくん(わかりづらいな)が上京していたので、それは仕事関係のMTG(顔合わせ的なもの)でもあったのだけれども、それにしても近況系だとか、山だとか、全く意図せず降り積もる(あるいは降り掛かってくる)話だとか、天使的な30代だとか、そのような話を(ゴールド・セイント集合!的なテンションで)していると、確実に喋りすぎて、飲み過ぎてしまう。そしてその結果として、財布その他一式を入れたバッグを忘れる(というか紛失する)という、ほとんどロック・スター紛いのことをしてしまっても、そのことによって、自分は最終的に本当に楽観的な考えをするということがわかった(最終的には発見され、ことなきを得ました)。あるいはまたそれは、例えば湯浅誠という人とかが言うところの「溜め」ということなのでしょうか。



・「溜め」とはなんだろう。財布を紛失することはもちろんリアルに困るけれども(現金が減るわけですし/銀行のカードだってないから困り/またsuica的なものだってチャージできない/から移動できない/そういえば今は免許も入っているじゃないか、おう…etc.)、しかしながら、その「あぁもうないかも」と思った瞬間には他にも「ipodのプレイリストともさようならだぁ」とか「あの財布を作ってくれたYくんにも悪いなぁ」とか「あの折りたたみの傘も気に入っていたなぁ」とか思いつつ、実際のところかなり考えたことは「神保町の某有名レンタルショップ『J』で借りたVHSテープは、アレかなりレアだと思うのだが、もちろん今も一定の需要があるのだろうし、そう考えると『J』の棚は東京の、いや日本のある種の人たちにとっての共有財産的な意味もあるのではないだろうか、あぁ、ごめんなさい、ある種の人たち…(特に若い人)」というような考えで、そういうことを考えるのは、自分が「所有する」ということよりも「共有」とか「贈りもの」とか、そういうことに興味があって、隙あらばそちらの方に重きを置きたいからなんだけれども、けれどもそもそもそのように考えられるということこそが、ある意味での「溜め」によって成り立っている、つまり「溜め」の産物なのですね(最悪ちょっと実家帰ればいいじゃんっていうことも含めて/しかしこれは結果的に見つかったから言えることだけれどもね)。



・と、いうようないわゆるひとつの、それ自体何の生産性もない「ロック・スター紛いの失態」によって、微妙にずれ込んだスケジュールや、失った自分の自分への信頼(そんな大袈裟なもんでもないけれども)を、適当にけり飛ばすために考えることは、そのような突発的な事故的な事柄からですら、何かを学べるのだという態度を提示し、そしてそれこそが自分が帰依している「お勉教」というカルト的な教団の教義なのだ(ユーモアですよ)ということを、いつもにも増して断然回りくどいレトリックでしかし極めて大雑把に書き付けたならば、満足して、植物に水などやる。そしてその結果として今夜は「ひとり・デザイン合宿☆NIGHT」です。