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  映像研究

駐車券の紛失について

・後から書いておく日記。業務期間がひと段落した月曜日だったが、何かの疲れや、何かの呪いや、その他の蓄積によって、驚くほどに精彩を欠いた、というか、端的にだめな一日だった。その「だめ」の中心に「駐車券の紛失」があり、日常において最もおそろしいその出来事が自分の身に到来する。とはいえどこかにはあるんでしょう、としばらく彷徨ったが結局消えてしまった。この世界のどこかには存在している(はずの)駐車券について思う。駐車券の紛失から生じた二次被害、三次被害については書かないでおく。

 

・特に大きな不安はないはずなのだけれども、身体をうまく操作できていないような感覚が朝から続いていた。キータッチも散漫。これが疲労によるものなのか、経年(身体の、つまり加齢)によるものなのか、と考えて、しかし、そのように簡単に指し示すことはできないのだと思う。思いながらも、何かしら「精彩を欠く」正しい「理由」や「原因」を探そうとしている。「だめ」は「動き」の問題なのだろうかとも考える。そのような理由や原因の「結果」として「駐車券の紛失」があるのだろうか。

 

・目に見える動作と目に見えない代謝や循環を想像する。筋肉のこわばりはその交差点にあるのか、呼吸はその「表現」になっているのか、など考えて、ひとまず対処方法は入浴やストレッチと少し長めの睡眠だった。

 

・作業も少しだが進める。午前と午後で二つの作業を並行して進める計画はまだ途上だが、ひとまず準備だけでも。注文した本が届く。佐々木敦『これは小説ではない』は、新潮での連載を面白く読んでいてコピーなども取っていたが、あらためて通して読みたいと思って購入した。グリーンバーグの「メディウム・スペシフィシティ」について、論文で参照したいとも考えて、そのうまい解釈や説明を読みたかったという理由もあるし、映画や写真における「撮影」の考察から考えられることがあるのではないかという理由もある。昼食の前後に前半部分を読む。

 

・そういえばもうすぐ届くはずのユリイカのワイズマン特集なども読んだ上で、映画特にドキュメンタリーと呼ばれる映像における「撮影」についても考えたい。写真について考える上でのヒントがある。中断して。