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  映像研究

回復、回想

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・土曜日。7月の終わりの夏らしい夏の日に。熱は完全に下がった。副反応からの回復。「まだ少し倦怠感が」という便利な文句。いずれにせよ今日は自分の作業をするつもりでいたが業務の準備が必要になり(というか忘れたふりをしていた)粛々と進める。課題づくり。資料集め。電話面談。LINEでの共有など。昼食にはベランダバジルソースでペンネを。15時くらいにひと段落。

 

・そういえば西田哲学会の講演会というものがオンラインで見られたのだったと気づいたのはもうかなり進んだ時点だった。後半少し視聴できた。

 

・夕方から家族と買い物と用事を含めたドライブ。家族は郵便局へ。自分は画材屋に貼りパネ(のりピタ?)を買いに。画材屋の店員の方が貼りパネを探す自分に一瞬何か含みのあるリアクションをしたのは変な総柄のシャツを着ていたからだったのか。あるいはもしかしたらどこかで会ったことのある人だったのではないか。解決できない微妙な感触についてのメモ。

 

・書店にてレジャーとして『ブルータスカーサ』『暮しの手帖』を購入。またもう一つのレジャーとして大人の駄菓子屋的な酒屋のワイナリー的なコーナーにてワインを吟味。熟考の結果、蟹のラベルがかわいかった「くらむぼん甲州」という物を選ぶ。キャプション(と言うのか)の「発酵時のガスが残っていて」「ほのかな塩味」などに惹かれる。美味しかった。

 

・夕方から夜に変わる聖蹟桜ヶ丘はほどほどに賑わっていて、それを任意のフレームで切り出したならば、マスクをしていることを除いては、今が緊急事態宣言下であることも忘れる。しかし雰囲気の中には確かに少し憂鬱を感じる。雰囲気とは何か。雰囲気もまた認識できる何かの集合であるはずなのだけれども。たとえば家電量販店のテレビで巨大に高解像度で放送されるスポーツ中継は誰も見ていない。それは平時であってもあり得る光景だけれども、何か少し不自然な感じがする。店内で消灯された喫茶コーナー。手書きの張り紙。虎ロープ。その断片を集めてもしかし雰囲気には届かない。中断して。

 

・そのこととは別に自分は。大型のショッピングセンターには、小さな子供のいる家族のサークルも、老齢の単独の方のゆったりした動きも、小中学生同士の5人や6人の跳ねるような騒がしさも、20歳前後くらいの密やかな2人も、別々に、しかし同じ場所に、存在している。そのそれぞれの歩き方や集まり方や視線の向き合い方などは、何事かを表現しているように感じられもする。そう受け取ることもできる。それを類型化するのではなく受け取ろうとする。している。自分が、記憶や空想を経由して、別の人に乗り移ってみることもある。見ることを通して。別の関係の中にいる。

 

・実際の自分は過去に、他者との関係の中にいたこともあれば、その関係のいずれからも排除されているような気持ちで、圧倒されるような気持ちで、呆れるような気持ちで、微かな羨む気持ちを抑圧して、人びとを眺めていたこともあったのではないか。その眺めは現在の「この思考」とは異なる。駅前のショッピングセンターの遥か外へ向かってもよかった。いつか自分は再びその過去の眺めと同じ=違う場所に立つのだろうか。そのように考えたりもする。

 

・このようなことを考えるのは、夏の夕暮れがもっともふさわしいように思う。夏の夕暮れが思考を強いることもある。たとえば、あるいは、具体的な、祭りの記憶、誕生日。