&

  映像研究

新しい

・202006010922。新しい週と新しい月が一度に来るだけでも充分に新しいにも関わらず、新しい日常や新しい生活様式まですべて一度に来た。新しい。その新しさと「ニュー・オーダー」の語源を結びつけて、新しさとの中の如何わしさについて話してくれた職場の方を尊敬する。しかし一方でどれほどその新しさを如何わしいと思いながらもどこかで、その「新しさ」が未知であることにおいて惹かれている自分もいる。どんどん新しくなればいいのにと思いもする。

 

「日常」という言葉の持つ別の意味での如何わしさと惹きつける力のことを時々考えてきたけれども、2020年以降「日常」という言葉はもう使えないのではないか。「日々」はセーフか。去年や一昨年のいまこの時間に当たる瞬間、自分は中央図書館の閲覧席でPCの作業をしていたと考えられる。いま中央図書館のサイトを見れば「閲覧席は休止しております」との表示。その状態がいつまで続くのかは不明。そうしたかつての時間を指し示そうとするならば「かつての日常」ということになるのだろうか。つまり現在は「現在は『かつての日常』ではない」「しかしそれを『非日常』と言い続けることにも限界がある」「ゆえに今は『新しい日常』である」という論の運びなのだろうか。ここで問題となるのは「『非日常』と言い続けることにも限界がある」ということが、どの程度確かであるか、ということだろうか。