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  映像研究

なぞる、なぞりながら別の動きへ

・202203291706。春の中心に近い地点は曇って寒い。一日中時間と空気が留まっているように感じられる。また呼吸をすることを忘れていた。あと一時間手を動かしたならば買い物へ出かけようと思う。

 

・昨日の夜に春の業務の諸々に打ちのめされそうになり、遂に自分の書く作業を手放しそうにもなり、ややあって、ひとまず去年の同じ時期の日記を読み返してみた。2021年の春の日記は驚くほど現在と似ていた。身体の状態や気持ちの持ちように至るまで、きれいになぞるように同じように感じて考えていた。蜂蜜と睡眠を求めていた。それらのことをすっかり忘れていたことを駄目じゃないかと思いながらも、しかし一方ではこれこそが日記の効用(効能?)とも思う。去年も同じような状況をくぐり抜けたのだということがうっすらとした信頼の基礎になっている。安心するには至らないが、緊張に対して客観的になっている。

 

・緊張している、と声に出してあるいは言葉にしてみることで、その緊張に意識を向けることができる。緊張というか強張り。去年の今頃はそれを植物が芽を出すときの力と重ねて想像していた。強く張り詰めている。ぴんと張り破けそうになる。植物ならば思い切り破け突き抜けて咲いてしまえばよいが、人間である自分は基本的に破けまいと防御してもいる。そうしたバランスを維持することは困難であり、それゆえ疲労も当然のことだと理解するために「交感神経 春」で検索してみる。それはこの季節に特有のある魅力を生み出す一要素でもあった。たとえば、新しさ。

 

・「新しさ」は「薄ぼんやりとした良きこと」ではなかった。いまは「新しさ」なるものを強烈なスパイスのように感じてもいる(山椒の木のイメージも重ねている)。

 

・かつて「新しい」「新しさ」という言葉を何度でも繰り返してリズムを生みグルーヴすることを求めたのは、自分の身体と精神の若さゆえだったのだといまならばはっきりと理解できる。それは消え去ったのではない。しかし自分の生の「基調」では無くなった。今はなぞる。なぞることは別の、直接的な意味でのリズムをすることになる。「バイオリズム」という言葉もあった。波なのかそれは。見えている線をなぞり、それがいつかの時間と再会して辿り直し、近視的に進むが大丈夫と信じてもいる。なぞりながら遠くに行くにはどうしたらよいか。

 

・別のこと。何かを始めるときに、行ったことのない場へ行く。行ったことのない部屋で、会ったことのない人と会う。知っている人が誰もいない。そういう状況について考えてみる。それを提供する側である自分は抵抗を感じることはないが、集った多くの人たちが抱え持っている緊張が伝染する。敏感な人ならばそれを受けて酷く疲れることもあるのだろう。自分は必ずしも「敏感な人」ではないが、こうして考えを進めると理解できることがいくつかある。いずれにせよ、自分にできることは、ゆっくり話すことと、マスクから覗く目で「笑顔」を表現すること。

 

・どうしても形にしておきたいと願い自分の作業を継続するしかない。線を辿れば広い地平を見ることを知っている(あるいは信じている)。小さな創造であれ、労働の生産に関わる制作であれ、すべてはそうだった。今日の午前は自分が学生である側で助言を貰う。残された数回の機会の一度。文字通りの有り難さを感じつつ、もう一度潜る。

 

・部屋で作業をしているときに、思考が動くことを妨げない、空気のような音楽を求めていて、今年に入ってからは、夕方には坂本龍一の近作を流していることが多い。特に『async』は適当だった。作業する日は大抵聴いている。聴くでもなく部屋に漂っている。はじめてさっきYoutubeにアップロードされている動画を見て、映像に映し出される、樹木、鏡、湯気、煙、そして光と影がBlack&Whiteで写される様子、その緊張感に、非常に親しい気持ちを持つ。そうしてこのアルバムが発売されたのが2017年の3月29日と見てそれは今日の日付だった。できすぎている、と思うけれどもその偶然に少し緩む。この季節をなぞりながら。

 

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