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  映像研究

見る記録

・7日はアテネフランセで上映を見る。ホンマタカシ『After 10 Years』。数日間のホテルでの記録による作品。ある場所を起点にして映像を紡いでいくことの可能性を見る。映画を見ているときは集中が切れたり眠くなってしまうこともあるが、それでも見ている。見ることが積み重ねられてゆく。上映後の西沢立衛との対談も興味深く聞く。カメラを使った制作の条件としてのフレームについて。映像には確かに時空間と呼べる性質が備わっているが、見ることには制限がある。ヴェンダースの映像を見たのはいつだっただろうか。確かに覚えている。あの映像は移動することに焦点を当てたものだったように記憶している。今の自分ならばどの場所をどのように撮影/編集するだろう。

 

・「映像には見えるものしかない」と。それはある種類の啓蒙であるし有効な場合もあるだろう。しかしその結論とは違うことを考えても良い。「見続けることによる積み重なること」でもなく、フレームの中には何があるだろう。「見る人それぞれの記憶」ということでもない。あらゆる場所は「かつてそこで人が死んだ」場所であるから、そのことを「掬い上げるような」映像による記録ということが考えられるだろうか。かつてその場所で人が死に、かつて死んだ人がその場所を見ていた、今は生きている者や物が映る。

 

・夜中にずっと見たかったドラマ『anone』を見はじめてしまった。坂元裕二という人のドラマを見なければとずっと思っていて、思いながらもスルーしていたのだけれども、このタイミングで、3月のあらゆる映像を勉強する月間に、満を辞して。連続ドラマはこんなことになっていたのだという衝撃。00年代の木皿泉から更新されていなかった。10年。田中裕子も小林聡美も凄い。ドラマは同時代を映す鏡だというようなことは言われるのだろうが、その鏡は割れているように思う。描かれていない。コラージュされている。それは場所を写していることとは少し違う。ドラマと映画の様々な違いについても考えた。

 


ホンマタカシ ニュードキュメンタリー映画『After 10 years』