&

  映像研究

あとから書く記録

・3/8は原美術館にてソフィ・カル『限局性激痛』。北千住BUoYにて小泉明郎『私たちは未来の死者を弔う』を鑑賞する。全然別々の展示であるが自分にとってはどこか通じるところもある。「普通だったら」わざわざ表現/言明/表出しないことを表す、明らかにするということが、作者自身の意識はどうであれ、コンテンポラリー・アートという領域の中で可能になることの心地の悪さ。それは作品自体の評価と矛盾しないのだろうが、そもそも「作品」を「評価」するという対峙の仕方で正しいのかとも考える。空間・展示的な意味においても、撮影時に被写体の何かを写し取るという意味においても、映像でなければできないこと、メディアの利点を引き出した作品であると思う。しかしあえて素朴に言ってみるならば、生きた世界が映っていないことにおいて、作品の主題とは別に徹底的に虚ろな作品でもあると思う。杉本博司の作品を見たときの印象と近いものを感じたかもしれない。