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  映像研究

展覧会から考えたこと

 
・昨日5月10日は水戸芸術館田中功起『共にいることの可能性、その試み』を観るために出かける。面白い展覧会だった。もしかすると自分がこれまで美術館やギャラリーその他のスペースで鑑賞したあらゆる展覧会とされるものの中で最も面白かったかもしれない。しかしそれは何かぐっと掴まれるものがあるとか、展覧会に「良い作品があった」とか、そういうこととも違う。かといって「美術史の中で・・・」というようなことでもなく、自分にとっても関心のある事柄が美術館という場所で展開されていた、ということに何か考えるきっかけをもらった、というようなとても単純なことかもしれない。


・その「自分にとっても関心のある事柄」は、それが主に映像による記録の形式を取っていることでもあり、その映像の中で「人が言葉を話す」ということが主要な行為であることでもあり、そして展覧会の題名でもある「共にいること」を問う方法として「共同生活」という「イベント」が実施されていることでもある。それどれもが自分にとっては「切実なこと」として、重要なトピックとしてある。あるいはそうした共同生活のようなイベントに関してならば、かつてまさにそのようなことを美術としてではなく(と言えるのもどういう根拠からなのだろう?)パーマネントな活動として構想していたのだった。


・「イベント」の層(レイヤー)と「記録」の層。『共にいることの可能性、その試み』においてその記録はまっすぐにコンテンポラリー・アートの形式へと向かっているように感じた。「出来事があり記録をするのか/記録をするために出来事を起こすのか」というのは、とても素朴な(所謂「鶏と卵」的な)、誰もが最初に思う疑問だけれども、その問いには考えるべき事柄が多く埋め込まれているようにも思う。自分の仮説ならばこうした「セットアップ・シチュエーション」は、1.「カメラ/映像」と、2.「発話/創造性」と、3.「指令/作者」という3つの要素によって成り立つと考えるのだから、初めにまず記録がある。記録を前提とした指令がある(「カメラの前で話しなさい」という命令がある)。この制作であれば複数台のカメラが取り囲むことで、ある状況が立ち上がるだろう。


・しかしそれでも。参加者のひとりハンさん(菊地さんのラジオの人だと声を聞いてわかった)は「ひとつだけわからないことがある・・・これは私たちに何のメリットがあるのか?」とインタビューで話していた(ディテールうろ覚え)。その発話は自分自身に問うているようで(ある程度の答えを持っているようにも思えつつ)、カメラのこちら側にいるインタビュアー及び制作者である田中功起という人へ向かっているようでもあり、まさにそうした発話があるリミット/セットアップ・シチュエーションの縁を示しているようにも感じられた。「お金を払ったらすっきりするかもしれない」とハンさんは言う。確かに金銭を支払うことで状況は動く、あるいは固定されるかもしれない。「演者として演じる」「被験者として身をさらす」「肖像権に対する報酬を得る」など。


・しかしそれでも。ここにカメラが存在しなければ(そもそもこの出来事は計画されないということが正解であるのだけれども、あえて思考の実験として考えた時に)ここには金銭が介在しなくても良いと考えることも自然だ。それは「お見合いパーティー」のようなもので、場合によっては参加者が金銭を支払うことだってあり得る。それは「イベント」の層ということなのか。あるいは本来であれば対価を払うようなワークショップによる何らかの効果?や、自分自身の顔が映し出されることの意義(セラピー的な、あるいはプロモーション的な)と、制作者が支払うべき金銭の間で、既に交換が成されているということなのか。実際にそうした「対価」「交換」つまり金銭を介した関係もまたコンテンポラリー・アートは主要な「題材」として扱ってきたようのだけれども。


・しかしなお。そこで例えば制作する人間は「なぜ、私があなた(たち)にお金を払わなくてはいけないのか」と逆に問うことだってできる。お金を払えばすっきりするように思えるかもしれない。しかしそれをしないで、あるいは「しないからこそ立ち上がる関係」のなかで「共にいること」は、本当にできないのか?とそのように問うことだってできる。というか、自分が展覧会を観て/観終わって、考えた/考え続けている問いのポイントの一つはそこにある。それは少し具体的にすれば「オルタナティヴな学びの場の創造は可能か?」という問いとしてかたちを持つかもしれない。自分が興味を持っている事柄について一緒に考えてみませんか?と。そしてその「興味を持っている事柄」は「出来事」のこと、そして「映像」のこと、「映像を前提とした環境における出来事」のこと、かもしれない。


・「恊働」という言葉が(暗に)前提としている平等というものを、結果はどうあれ映し出した映像として、少し前に制作された複数人の共同制作の記録映像(「ピアノ」や「陶芸」)の作品がある一方で、今回の水戸芸術館で展示された『共にいることの可能性、その試み』は、制作者、撮影者を含んだ「恊働」の位置を探ることに主眼が置かれているということなのか。そして、そうならば、というか、そうだとして、だからこそ、展覧会を観た印象は「物足りない」し「非常に不満」だ。何よりも参加者のフィードバックが足りていないし、その回路を作れていないように思う。あるいはそのフィードバックがしづらいこと、あるいは無意識にでもそれを封じるようなかたちでの回路が構築されているようにも考えると、そのことの気持ち悪さも感じる。でもそのことと作品の「面白かった」という印象は矛盾しない。むしろそれはひとつの事柄でもある。


・これはやや強引な言い方だと思いつつ、しかし本当に自分が考える表現に一番しっくりくるのは、このプロジェクトは「革命の準備」ということなのだと思う。その場合の革命は(もちろん)政治的な体制の変更あるいは刷新ないし更新を必ずしも意味しない。しかし同時に個人の内面に焦点を当てた宗教的変革というようなこととも違う。あえて言うなれば「〈国家〉と〈個人〉のあいだ」その中間領域における革命を準備するレッスン、あるいはプログラムの実践なのだと(自分は)考える。


・そして例えば従来の考え方であれば、そのような、ある「プログラム」があって、その「プログラム」を記録する(そして伝達する)ために映像メディアがある、という順番であったはずなのだ。だからその従来の考え方に従えば、その「プログラム」を効率よく実践するためには、まずはカメラは置いておいて、その「プログラム」を遂行した方が良い、その「プログラム」の精度を上げて、その上でそれを伝達することを考えた方が良い、ということになるかもしれない。


・しかしこの展覧会/作品/プロジェクトを鑑賞することから自分が考えた事柄を組み立てなおしたならば、その順番こそが違うかもしれない、ということを考える。あるいは「革命の準備」をするにも、映像メディアは必要ということになる。というか、映像メディアを置いておいたところでは、そもそも現代において革命を構想することはできない、ということ。そうしたことが暫定的な状況診断として示されているということなのか。