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  映像研究

冬の隙間

・201912130950。冬の隙間の備忘録。中央図書館に来た。POPEYEをぱらぱらして今。この場所は神殿のようだとふと思う。丘陵の中腹に平たく建つ。巨大な箱。柱が白く円柱であるからか。丘から住宅を見渡せる。その神殿のような場所で生活の諸々の事柄から離れて考える。一昨日で今年のフランス語の授業は終わり。引き続き年明けの授業を受講する手続きをしつつも、2020年1月のスケジュールを見て震える。これ大丈夫なのか?と思う。思いながらもしかしこの2年くらいが比較的穏やかであっただけで、2013、2014、2015、2016と振り返ってみれば、どの年も奇跡的なスケジューリングとチームワークで乗り越えてきたのだった。だからたぶん今シーズンもできるだろう。そう自分に唱える。

 

Twitterで母校(の他の学科)の現在の教員の方が「家族の用事で仕事を早退することに対して同僚が心良く受け入れてくれた(職場の雰囲気の良さ)」というようなつぶやき。自分もまた現在の職場で同じように気楽に人に申し出たり申し出を気楽に受け入れたりすることができているだろうか?と問うてみる。時と場合によるかもしれない。ありあまる肉体と精神の力を適切に振り分けながら、最終的にいかにして良い場をつくることに向けることができるか。労働や資本についての過去の他者の言葉を参照しながらも、ある地点から先は自分で考えて、考えていることを忘れながら、乗り越えていくことになるのだろう。準備や心構えがすべてそのまま役立つわけではない。にも関わらず可能な限り準備をすることがいまの自分の態勢(スタイル)だ。

 

・しかし準備は無限で終わらない。昨晩は何も準備が整わないままに職場を追われて失意の帰宅。毎日帰りの電車で少しずつ読んでいた松本圭二の『松本悲歌』を読み終わる。とても面白かったという感想。この本に書かれた言葉を詩と言うことはできるのだろうけれども、それはさておき自分にとっては、映像と人間と言葉について考えるためのきっかけとして読んだ。もしくは日々の仕事(の中の思考)を言語化する方法の手引きとして読んだ。そして自分もまた引き続き毎日の帰りの電車の中で正気を保つために、あるいは自分へのお歳暮として『チビクロ』を注文してみる。これで12月と1月を乗り切れるかもしれない。

 

・読むこととともに「書くこと」と「ノートを作ること」「語学を継続すること」を課題としている。一体それをどのようにすれば成立させられるのかという冒頭の問題。すべてが理想的に運んだならば春がもうすぐそこまで来てしまった。想像を中断。