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  映像研究

またひとつ夏が終わる

・201908251454。図書館でキーボードを叩いている今。夏休みの宿題を抱えた子供、何かの勉強をしている大人。くつろぐ中年。寝る人。色々な人が体を傾ける止まり木のような机で自分も自分のことを再開する。夏の終わり。玄関を開けた瞬間に終わりつつあることがわかる。BGMは山下達郎『さよなら夏の日』か、あるいはスピッツ『夏の終わり』か。どちらもApple Musicにはない。

 

・夏の授業の業務も昨日で終わる。労働だが勉強であり修行であり実践でもあると自分に言い聞かせる。毎年同じようなことをやっていて毎年同じようにぎりぎりで毎年その前の年よりも消耗していると感じる。業務の期間が終わって2日くらいはいわゆる「使い物にならない」状態になる。何か根本的な問題があるのではないかと思うが、自分でハードルを上げ続けている感覚もあるのだから仕方がない。けれどもこのまま上げ続けることはできるのだろうか?人の話を聞くことと、話す・書く言葉を厳密に考えることが今シーズンの新たな課題で、できたことよりもできなかったことの方が淀みとして残る。これも毎年同じ症状だ。日記をつけているとよくわかる。たとえば音楽が満ち満ちた空間で体を揺らすなどすれば少しは調整できるのだろうか。あるいは友人と一切の手加減なしに会話をすることはどうか。この業務の淀みは「思い切り言葉を投げること」と「それを押しとどめて吟味すること」を絶えずバランスさせ続ける即興の疲労なのではないか。であるならば、完全なオンか、完全なオフか、機械のように正確に動くか、すると次第に回復するのかもしれない。遊びなのか喧嘩なのかわからない動物の戯れのように手加減なく発話する学生を少し羨ましく思う。人間のエネルギーが目に見えるような。

 

・この夏の生活における目標は健康に留意することと自分の研究を手放さないことだった。健康についてはいい感じ。少し体重が減った。アルコールを減らしてみた。研究に関してはどうだろう。フランス語学習については10日ほど停滞してしまっていた。再開しよう。中断。