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  映像研究

新宿を歩いた記憶、映像

 
・6月11日の土曜日の新宿でのデモンストレーションの記録は良い映像が沢山youtubeにあって、それらの映像を観ながらあらためてその日のことを思い出す。あるいは「お、映っている」とか思いながら観る。そしてそのことから4月10日の高円寺や3月11日以降の色々なことも思い出す。



・「できることを/たまたまやれる環境にあることを/ただ/やる」という発想によってデモンストレーションに参加する。あるいは面白そうだから参加する。それ以上のことは考えないわけでもないのだけれども、それほどいつも考えているわけでもない、というのが実に便利な柄谷行人的なスタンスの超個人的な解釈だ。



・そういえば今回集合場所でたまたま目の前に主催の(おそらくは「素人の乱」の周りの)人たちがデモのカンパを募っていてので、少しだけれども「おお。そうか。そういえば。」という感じで入れた。デモをするためにもお金が必要であるということを高円寺のときに初めて知って、そのことに驚きつつも、そのことでますますデモを呼びかけている人たちに対する、ある種の感謝のようなものが生まれた。



・デモの到着場所であるアルタ前広場での締めの(?)アピールの映像を観て、自分は最後までその場所には居なかったのだから、その場所で起こっていた/起こりつづけていた出来事を知って驚くとともに、何というか普通に「良い映像だな」とも思った。それはその場所の「記録のための映像」であるのだけれども、しかしまるで自分がその場所に居るような気持ちになり、そして思わず「ああ、良い雰囲気だな」と感じられるという意味において、良い映像でもあると思う。



・自分が何かをしていることは、あるいは「している」までもなく、ただ「どこかにいる/移動する」ことは、そのことは「今より未来のある地点によって判断されるためにやっているのか」と考えたならば、特にそういうわけではないような気がするけれども、まったくそういうわけでないかと言うと微妙だ。しかし、それでも、ただやる。そういうことも含めて、アピールの最後の「俺たちが新しいエネルギー」と言っていたのは、詩のようで、同時にからだも動かしていて、とても良かった。