&

  映像研究

方法、セクシー

 
・22日(木)。本日連休前のPAYDAY。各種支払いを済ませて一路町田へ向かう。そして各種古着屋、懐かしの古本屋「高原書店」(6年くらい前?まだ大久保に「新宿古書センター」としてあった頃は相当な頻度で通っていたのです)などで各種物色しつつも、今日はその近郊に全く別の用事で来たのでした。


桜美林大学パフォーミングアーツプログラム<OPAP>vol.27
『ゴーストユース』作・演出 岡田利規チェルフィッチュ主宰/桜美林大学非常勤講師)
桜美林大学プラネット淵野辺キャンパス(PFC)内 PRUNUS HALL(プルヌスホール)


・つまりそういった観劇のために東京と神奈川の境界まで来たのでした。
岡田利規チェルフィッチュの作品を観るのは去年の3月の『三月の5日間』@SuperDeluxe以来の二度目なのだけれども、今回のこれは基本的には大学の企画であるので、これまでの作品とはまた違ったものになっているはずだったけれども、もちろんそういう部分もあり、一方そうでない部分もあり、いずれにしても「ポストパフォーマンストーク」を狙って行ったのだけれども、そこで話されていたことからも色々と、主に勝手に個人的に考えてみて、これまでの作品も含めた、岡田利規チェルフィッチュの方法(論、ではないような気がする)と、その方法に対する考え方のようなものが少しわかったような気がした。


・それにしてもこの作品は単純にその俳優たちの演技を追っていくだけでも面白い。トークでも話されていたけれど、(しかしそういう言い方をしていたかどうかはおぼろげだけれど)大学のプロジェクトだという条件の中で、ある「課題」に答えるような必要から出来上がっていった「19人の俳優が3人の人間を演じる」というフォーマット(?)と、「35歳の女性が20歳前後だった頃を回想する/20歳前後の俳優が35歳を演じる(ことをつねに問い直し続ける)/」というストーリー(?)があるわけで、そのことによって、普通に生活している人間のサイズで見て、理解していた時間が、場面ごとの言葉と体の動きによって引き延ばされたり引き戻されたりして、終わってみれば、1時間20分の中で2時間半(くらいか?つまり倍くらいか?)の時間が流れているという、そのこと自体を楽しめれば、それはそれで良いのだとも思う。


・そして、しかし同時にそれよりも気になった(気になってしまった)のは、その「ストーリー」と岡田利規チェルフィッチュの「リアリティを描くため」の「メソッド」が重なり合うところでメッセージされている(ように思える)ものが、とても不思議な、少なくとも以前観た『三月の5日間』とはかなり違ったもので、直接的な言葉で表明されていたことであ(ることによって間接的であるような)って、(あるいはそれは去年の12月に上演された『エンジョイ』にも見られたのだろうか。観に行けなかったので、そこのところはわからない)それはつまり「35歳を演じている20歳前後の俳優によって」言葉として発せられるときには、またそこで別の意識が含まれるということ。この部分についてはアフタートークの質疑応答でも挙げられていたけれども(そしてそこではあまり上手く理解することができなかったのだけれど)、作品を観た印象から言えば、このような関係から発せられるメッセージ、具体的には主に役者が携帯電話のメールを打つ画面に書く言葉、そしてそれを指し示すやり方(それは観客への問いかけであったりする)が、何となく「プロデューサー>アイドル」のようなものに似ているように感じられてしまうのは、必ずしも「演出家>俳優」に不可避なことではなくて、この作品だけが持つことができるメッセージの方法、そして感覚、なのではないかなと思った。


・ところで。(たしか)7〜8年くらい前の『SWITCH』(だったと思う)の「歌謡曲特集」のようなもの(だったと思う/アラーキーモーニング娘。を撮影して、佐内正史鈴木あみを撮影してたりする号)で、ライムスター宇田丸(だと思う)が各種J-POPを紹介しつつ、「歌謡曲特有の『やらされてる感』を、あえて『セクシー』と表現したい」というような(おぼろげだ)ことを書いていたことを思い出したのです。


・この作品(『ゴーストユース』のことです)から受ける印象とは(ざっくした、しかも他の人の定義を引用するかたちで感想を述べるのは気が引けるけれども)、そのような意味でなんだかとても「セクシー」なのだ。そしてその「セクシー」さはこの作品において設定として扱われる「家族」や、そこから多少なりとも感じとれる「性」に対するものではなくて(つまり直接的な「セクシャルさ」とは全く関係がない)その「メッセージの方法」から感じられるものだ。20歳前後の俳優が35歳であることを想像し、その想像と現実の間で言葉とからだをゆらがせながら、たとえば「私たちは幸せになれるのでしょうか?」というような種類のメッセージをメッセージする、ことから感じる(それは主にここちよい感覚の)「もやもやした感じ」は自分のボキャブラリーでは「セクシー」ということになるのだということ。そしてもちろんその構造には、演出家である岡田利規という人の「35歳になってしまった人の視点」が、更にメタな(という表現を使ってしまった…)意識として働いているのだと思う。それはこの作品では、携帯の画面の言葉(それは演出家だけでもなく役者だけでもない、つまり双方が何らかの方法で書いた言葉だということがアフタートークでわかった)が一番わかりやすく表しているのであって、そして同時にそこに(それは意図するところなのかどうなのかがわからなかった)「メッセージすることを促す」ような構造が見えたことによるものではないかと思う。


・そしてそのことから作品全体の印象は、登場人物3人のほぼ2種類の会話の反復と人称がずれていくことによって「引き延ばされた時間」のリズム(それは『三月の5日間』にも感じられた)の中に、「人称のずれ」とかとはまた違ったメタな視点が「サビ」のように現れるというもので、だからそれは「ポップ、転じてセクシー」なものとして感じられたのだ。とうようなこと、それ自体はもちろん新鮮で、(繰り返しているけれども)それはある条件の中でとても特殊に発生したメッセージであるから、その内容というよりも、むしろその方法にこそこの作品の面白さを思った。『フリータイム』が楽しみだ。