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  映像研究

春の夜

・書いておく一日。このような一日が突然おとずれる。すべては突然にある。

 

・午前に荷物を受け取り昼に車で実家へ。母と近況を報告し合いのち一緒に出掛ける。ATM。墓参り。写真撮影。買い物。普段行くことのない最寄りの隣の駅の書店へ。平日午後の書店は静か。歩くのが早いことを指摘されて反省する。帰宅して。

 

・妹と合流して動物病院へ入院していた犬を引き取りに向かう。動物病院という建物にはじめて入った。医者の説明を3人で聴く。しばらく様子を見ましょうと、きっと大丈夫でしょうという言葉を理解しながら、ひとまず良かったと思う。

 

・帰宅して夕食しながら力を抜く。力を抜くために飲酒して、車で来ているから、今日は実家に泊まることにして、明日の予定を立て直す。明後日以降の予定も検討して。春の夜に家族の構成メンバーと時間を過ごして言葉を交わせば、同じような、別の、この場所の記憶もよみがえる。

相談

・後から書いておく記録。準備の大切さを心から実感した翌日は相談について実感する。午前に家で作業して午後からお世話になっている先生に授業の相談をする。自分が考えてみたことを伝え、返事の言葉を受け取れば、また考えを続けることができる。有り難い。そのように思えば、相談の意味も少しずつ分かってきたように思う。相談しまくるでもなく、相談しないでもなく、適切に相談することが、動かす。状況を前に動かす、ではなく、自らの動きを助けることになる、といえるだろうか。立ち止まって吟味するために相談する。これも普通のこと。普通のことに気がつき続けている。いったい今まではどうして過ごしていたのだろうかといつも反省している。

 

・久しぶりに大学へ行き、一冊の論文集を手にして、そのなかの論文ではない一つの文章から、はたらくことについて考えさせられた。「私というリソース」という言葉を読みはっとする。人は資源。かつてならばその言葉に抵抗を感じていたかもしれない。人は材のようなものではない、と即座に思ったかもしれない。けれども、いま別のことを確かに考えている。企業とも経済ともあるいは社会ともはなれても、人は力であり得る。ここから何かを考えられる。

 

・その文章の後半には、「これからの人生は私というリソースを最も切実に必要としている人たちのために用いてもらいたい、という考えが次第に心を占めるようになった」と書かれていた。かつて講義で出会った、自分よりもふた周りは上ではないくらいの方が、そのような言葉を書いていることから考える。そのような姿勢でいるためにこそ、学ぶこともあり、磨くべきものもある。健康でいつづける必要もある。そして「必要としている人たち」を見極めたい。

 

・実家から朝連絡をもらって、明日の予定をふたつキャンセルする。ひとつは会議で、自分がその場にいなくても良いように、文章を書いて代読をお願いする。もうひとつの勉強会は、お願いして、集まり自体を延期してもらった。お願いする。小さな助けが必要なときに、さっとお願いすることも大切。これも普通のこと。普通のことを丁寧に積み重ねれば、大きな失敗はない。これは信念。これは祈り。普通だった。

準備

・書いておく記録。日曜日は丸一日の業務。できるだけ準備して、その甲斐あって無事に終わる。準備の大切さを感じている。人は年齢を重ねるほどに準備が必要なくなり反射的に自動的に良い感じに動くことができるようになるという謎の考えを持っていたけれども、全然そういうことでもないと実感しているこの春。むしろ、夢中で行っていた時間を通り過ぎて、勢いで行うことに限界を感じて、いま必要なものこそが準備だった。人前で話す内容をかなり具体的に原稿にする。その原稿を丁寧に読む。それで良かった。そして準備することと適度に力を抜くことには関係があることに気がついた。それはとても普通のことだろうか。その普通のことを、去年の春にうまくできなかったことを通して学んだ。その普通のことをいま知った。日々学んでいる。まだ学ぶことができる。より良くしようという気持ちが確かにある。

17,480

・202403162139。帰宅する京王線で書いても良い。久しぶりによく歩いた感じがしてスマートフォンを見れば、17,480と表示されていた。

 

・出張に出掛ける家族を車で駅まで送る朝。春らしい朝。

 

・支度をして恵比寿へ。東京都写真美術館で「木村伊兵衛 写真に生きる」を鑑賞する。意識して木村伊兵衛の写真プリントをはじめて見た。数ヶ月のあいだ写真集を眺めていたが展示されたプリントを見たことで少しずつ分かってきたように感じる。確かになにかが掴まれているが、特に横位置で撮影された写真には、明確な意思のようなものを感じない。曖昧さと軽やかさの緩衝。そしていずれの写真も人間の身振りを見せている。その確かさの力。「記憶:リメンブランス」も鑑賞する。

 

茅場町に移動して清野賀子の写真の展示を見る。壁に掛けられている3枚の写真をしばらく見る。この写真についてもう少し考えて言葉にすることができるならばといつも思う。

 

・上野へ移動して藝大のゲームコースの展示を見る。かつての学生と少し立ち話しつつ、作品を新鮮に感じる。極端にゲームに明るくないが、ゲームというもの自体から考えられることもある。これも映像。勉強したい。

 

新宿三丁目で下車して伊勢丹メンズ館に引き寄せられつつ無印良品で必要な衣料品だけを購入する。無印良品週間だった。

 

・夕方から夜まで職場で準備。部屋の掃除、プリントの作成、パワポ的なデータ、合間に電話、などしているとあっという間に時間が消える。「ここまで準備した」と言い切れることが大切と思い出した。

 

・明日がこの春の最初の小さな山場。出張中の家族から良い写真が送られてきた。帰宅して横になり目を閉じれば。

ただ

・書いておく記憶。

 

・ただひたすらに家でノートPCを見る一日。このような一日が心身にとって良いはずがないことを知っている。しかしそれが必要であるとして。

 

・授業の教材となりそうな映像を探す。ほんとうに正直に言えば今の自分は映像を視聴して、新鮮な驚きを感じることがない。おそらくないだろうなと思いながら調べている。ことにより本当に驚かない。これもまた負のスパイラルなのか。しかし、驚かない、ということを認めた上で、なおかつ可能なリサーチもある。映像コンテンツそれ自体に驚くことがなくとも、それを繋げていくことで、ある文脈が立ち上がり、そのことに興奮することはある。そういう姿勢。

 

・午後にオンラインで会議。言いたい意見を少し切り取り少し薄めて発する。届き響くために。薄めてはいるがぼかしてはいない。

 

・こうして家から一歩も出ないで今日は終わる。少しだけ飲酒して早めに横になる。すぐに意識は消える。