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  映像研究

たたかう

・後から書いておく記録。月曜日、祝日の火曜日、そして水曜日と三日続けて作業することができた。期待していた1/3ほどしか進まなかったが、それでも確かに進んではいる。そして毎朝その日の自分に最大の期待することをやめない。

 

・目のまえに置いてあるキャンディの包装に「たたかうマヌカハニー」と書かれていて、その「たたかう」が「戦う」や「闘う」ではだめなのだろう、日本語の表記のニュアンスを思いながら、それは何とたたかっているのか、流行りの疫病か、生活の困難だろうか、と考えなくもない。「たたかう」という言葉に(どんな表記であれ)抵抗を感じたまま年齢を重ねてしまったことも少しだけ思う。業務の場面ではチア・アップとして、稀に「たたかう」ことを語りかけたりしていることもあるが、しかし一方では全然それを信じていない。自分に関しては「たたかう」こととは別の方法をつねに探している。しかしそれを正しいとも考えていない。そもそも誰かに何かを説得するつもりなどないのかもしれない。

 

・何の話だっただろうか。夕方に立憲民主党の党首選の四名が話している言葉をYoutubeで聴く。衆院選を挟んで色々な場所で色々な批評が挙がっているが、腑に落ちないところがある。2017年の10月に中野駅前で枝野幸男という人の声を聴いた感じを覚えているからだろうか。陰謀論のような形にならないように気をつけながらも、思うことは、このような流れになったこと自体が、より大きな権力を持つ側の、その力が発せられた結果なのだろうということ。選挙の「結果」とは別に、以前も、最中も、以後も、力は動いている。倒された者が二度と立てないように徹底的に力を奪うこと。どのようなメディアに、どのような言葉を発する、どのような雰囲気の、映像が流されるのか、その映像がどのように拡散されるのか。そのすべてが「たたかい」であるような世界に生きている。しかしそれはつねに過渡的なものでもある。本質は100年前から変わっていないのであろう。ではどうするか、という問いはまた別の時間に考える。

 

・何の話だっただろうか。夜に家族が登録しているNHKプラスで『おげんさんといっしょ』を見る。初めてちゃんと番組を通して見て、こころざしの高さに強い印象を受けた。どのような形であれ、教育ということに希望を持っていることが随所に感じられた。生放送であることに驚く。エンターテインメントとしてのパフォーマンスが圧倒的なレベルの高さということはあるけれども、同時に、何よりも出演者の方々が言葉を話す感じが良い。あのように画面に映りながら話せるのは、画面に映っていないところで、どれだけの思考をしているのだろうかと思い、手を合わせたくなるような気持ちになる。それもまた「たたかい」なのか。

 

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手ぶら(ポケットに文庫本)

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・202111221939。バス停でバスを待ちながら書いている。月曜日は一日家で書く作業。少し進む。数日寝かしていたことの効果だろうか。しかし予定よりも圧倒的に(絶望的に、の手前)遅れている。明日は休日ということもあり、これまで旅行を除いてはなかなか外食するタイミングがなかったから、家族と今日はちょうど良いかもと計画していた。家を出るときにリュックを手にして全然不要ということに気づき上着のポケットに財布、マスク、鍵。ズボンのポケットには小銭入れとスマートフォン。直前に文庫本も。鞄を持たずに外を歩く時の自由さ。バスが来る。

水筒を見る

・202111212027。大幅に延長した業務から帰宅する京王線で書いてみる。日曜日の下りの電車は空いている。夕方から降り始めた雨のせいか空気の感じは少し変わった。笹塚駅準特急に乗り換える。笹塚駅のホームには、まだ冬の気配はない。

 

・業務が年内のソフトな山場を迎えている。山ではなく丘か。やむを得ず朝起きて自宅で業務。基本的に丸一日、文章を読みコメントを返す作業をする。原稿用紙に赤字を入れ、Wordのデータに書き込む。場合によっては修正案を提示する。他人が書いた文章ならば、このように無慈悲に切ったり貼ったりできるのに、なぜそれが自分の文章ではできないのか、そう考えながらここしばらく生活している。明日からは自分の文章と向き合う予定の数日。

 

・数日水筒を持ち歩く生活をしている。暖かい季節はどうしてもミネラルウォーターなどのペットボトルを購入してしまうが、寒い季節は熱いくらいに暖かい飲み物が必要だった。午前の行きの電車に乗る直前、ホームのベンチに座り、ふと息をついて水筒をリュックから取り出す。水筒のキャップをひねりお茶を入れ、飲み、またキャップをしめる。最近は石垣で摘まれたホーリーバジルのお茶だった。

 

・水筒を見る。水筒の存在が良いと思っていた。自分の、この、水筒の姿に何かを感じたから、ふと、ベンチに立たせて、一枚の写真を写す。立たせた水筒を写真のフレームの中心に置いて、写してみる。何かの存在を写すならば、その何かを中心に写す以外に方法はないように思われた。

 

・自分が確かにその物の存在を感じており、愛着を感じていて、その物に触れることを好ましいと思っている。そういう物を見つめて、見つめるだけでは足りずに、写す。その物の肖像があるべきだと思っている。それは祈ることに似ているだろうか。いずれにしても、写真を写す理由はそれ以外にはないのではないか。日曜午前の人の少ない駅のホームで、ベンチに水筒を立てて、その水筒を見ながら、そのように考えていた。

 

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名指すことが難しい事柄

・202111202116。帰宅する京王線で何かを書いてみる。今日は午後から業務。開店と同時に猿田彦に滑り込み、しかし自分の作業ではなく業務に関連した作業を一時間と少し。慌ただしく出て駅のおにぎり屋で昼食。職場に着く。12:00から21:00までの時間は消滅した。それで今。

 

・季節は傾斜を転がる玉のように、加速をつけて進んでいく。毎年同じような傾斜の。その勢いに身を委ねると何も手につかなくなる。そのことを知っている。

 

・フリース、コーデュロイ、ウールまたはそう見えてアクリル、そしてダウン。電車に乗り合わせた人たちの姿も季節を映す。少し前からふと作業の手を休めたタイミングでコートあるいは上着を調べていて、持っていない種類のコート、上着とは何かと考える。

 

・そういえばYouTubeを開くと、いつからかバブアーについての動画ばかりだが、それはどういうキャンペーンなのかマーケティングなのか。友人たちが皆持っているから、あえて自分はそこには踏み込まないと考えている。

 

・暖かく、適度にゆとりがあり、一方ですっきりもしている、そんなコート、そんな上着はどこにあるのか。その感じを言語化しようとしているが、そうしているうちにこの季節は過ぎるのではないかとも思う。そうして自分はもうしばらく冬のコートあるいは上着を新調せず、結果的にペラペラのパーカーの下にインナーダウンで凌いでいた。

 

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