&

  映像研究

秋らしい午前

・201909180926。開館の9時に少し遅れて中央図書館。冷房が限りなくオフに近い弱になった図書館は気持ちがよく無印良品風のミュージックが時間を忘れさせる。秋の秋らしさを味わい尽くしたい。だからというわけではないが昨日まで慌ただしく週末の業務とその他諸々を過ごして今日はエアポケット的に無理矢理に図書館に来てみた。労働の時間は意識が業務に最適化されているから行き帰りの電車でもJPOPで気を紛らわせるようなことになってしまい何かを進めることが難しい。スマートフォンでゲームをしている人もきっと何かに最適化されているのだろう。理解はできる。

 

・テキストエディットにtodoリストをエディットしていてそれが消されることで何かを倒しているような感覚はあるが、todoは次から次にやってくるのでまた書く。それを消したり書いたりしていると今。あっという間に午前中は過ぎる。本当は合宿的に一切の業務関係の諸々をシャットアウトして3日くらい集中して作業をしたいが今年に関してはなかなかそうもいかない。思い出せば去年と一昨年はこの図書館でそういう日々を過ごしていた。コミュニケーションが遮断された時空間の幸福。あるいはそうした状況でしか辿り着けない思考があるということ。あるのだと思っている。

 

・土曜日のトークイベントを思い出し家の本棚から李静和『つぶやきの政治思想』を手にとって読んでみる。スタイルなどと考えることのないくらいに/あるいはスタイルなどと考えることを恥じるほどに、別の意思によって練り上げられた文章だと感じる。時々読み返すだろう。そして隣に置いていた生野幸吉『闇の子午線 パウル・ツェラン』も一緒に図書館に持ってきてみた。もちろんパウル・ツェランの本をパラパラするのは清野賀子『至るところで 心を集めよ 立っていよ』に依るところが大きいが、しかしイベントでアレントについて語られていたことを思い出しつつ、ツェランという人から見る戦争を挟んだ20世紀中盤ということも考えられるのだろう。なおこの本では「至るところで 心を集めよ 立っていよ」は「いたるところに、おまえを集め、立て。」と訳されていて、それはまた少し違ったニュアンスを持つ。中断。

あとから書く

・14日土曜日は、この数年参加している大学院でお世話になった先生の勉強会の特別編のようなイベント。詳細は記さないでおくが、ゲストには李静和さん、高橋悠治さん。自分には同じ空間で話す様子を見聞きしたい人と思う著名な人リストのようなものがあるが、高橋悠治という人は一番はじめに挙がる。最初に読んだ本は確か『音の静寂 静寂の音』でその文章の運び方と言葉の選び方に惹かれて以来『きっかけの音楽』は2008年に出てすぐ何度か読み返した。そして70年代に書かれた文章を手に入れその仕事の広がりを知り、また水牛楽団についてもリサーチすることから2010年前後の自分の活動を考えていたと書けばほぼファンのような者になってしまうだろうか。イベントには「政治と芸術について」というテーマが設定されていたが、テーマとの関連というよりは、一人の人が長く何事かを実践してきたことを言葉にしていたという印象。それは登壇された3人それぞれの言葉から感じる。ノートにキーワードをメモするだけでなく可能な限り話された言葉をそのまま写し取ろうとする。それは哲学の講義を聞く基本的な態度かもしれない。よくトークイベントの質疑応答的な時間に聴き手が「貴重なお話ありがとうございます」と話し始めるのを聞くたびに「本当にそう思っているのだろうか」「その言葉はあまりにも軽くしかも定型的でむしろ話し手に対して失礼ではないか」と反射的に考えてしまうくらいに自分は大人気ないが、そういう自分が何よりも先ず「貴重な話だ」と思い、それゆえにコミュニケーションなど考える余裕がなかった。2時間半聞きながらノートに書き続けて、しかしせっかくなのでアフターパーティにも参加する。色々な人たちと少しずつ話をして同世代の研究者と呼ばれる人たちがそれぞれのフィールドを持ちその現場を観察することから、少しずつ思考を更新していることが理解され、なおかつそうした研究・思考はつねに労働・業務とのせめぎ合いであろうことが想像され、反省というには強過ぎるが自分の日々を省みざるを得ない。そしてこういう時間もまた何よりも貴重であると思う。

 

f:id:MRTR:20190918105956j:image

夏の図書館の最終日

・201909111538。図書館での作業を中断して日記。明日から業務の慌ただしい週間(月間)が始まってしまい、始まったからにはきっと気がつけば9月が終わっているだろう。想像ができる。去年と一昨年はなんとかそれを引っ張りながらこの図書館で紀要のための論文を書いていた。図書館で一日の約半分を過ごしているとその場所と自分の身体が馴染むような感覚になる。同じくらいの時間に同じランチとケーキセットを摂取して作業する。今年は論文がないなりにひたすら準備(のための準備)のような作業をしている。時々窓を外の風景を見ながら。

 

・昨日は図書館で作業した後、(閉まる直前の)職場まで行き、普段とは違うプロジェクトチームで飲食。当たり前だが自分よりも全然年齢が若いあるいは職場に来てから日が浅い人たちの手助けによってなんとか自分の業務は成り立っているのだなと感じ入り、半ば反省あるいは恐縮しつつ感謝。電車があるぎりぎりで解散。中断。

 

・201909111707。激しい雨。久しぶりの夕立らしい夕立。思わず家の窓閉めてきたかなと心配になるほど強烈な。図書館の窓ガラスが高い音を響かせ雷が地鳴りのような低い音を響かせる。100メートル先も見えない。アメッシュを見たならば東京のお腹の部分に雨雲がぴったりと張り付いている(小学校の頃に「東京都が金魚だとしたら清瀬市は背びれです」と教わってから東京の地図を見るたびにずっと魚が横になっている想像をする、そしてその発想からすると町田市が腹びれで奥多摩町が尾びれということになる)。過ぎ去りつつある多摩川方面の景色を見ていて思わず「そうだ『天気の子』そろそろ見ておきたい」と思うがとりあえず目の前の作業をしなければいけない。再び中断のち帰宅。

夏の延長戦

・201909101016。中央図書館にin。久しぶりに図書館に来ることができて作業を始める前の備忘録。夏の名残のような気候。暑いけれども空気は少し乾いてきているように感じる。思い出せば秋は意外に忙しく余裕がなかった。そんな中でも少しずつ進める。そして時間は一度きりだから可能な限り写真も撮ろうと思いGW690を車に積み、信号で停まった時間に久しぶりにシャッターを押してみた。もうすぐこの夏に撮った写真をまとめて現像に出して、その写真を見たときに今年の夏ははっきりと終わるようにも思う。中断。

 

・作業を中断して休憩。図書館には「書庫蔵出し」的なコーナーがあるが、篠原有司男、東松照明マクルーハンなど、尖ったセレクトしているなと思う。それを横目に見ながら喫茶コーナーでコーヒーとケーキでブレイクするのが楽しみである。

 

・上海で8月末から開催されているボードリヤールの展示の風景を見て、少しだけ上海に行くことを考える。パスポートを取るのに一週間。カレンダーを開いて9月末まで休める3日間を探す。行けない・・・こともない。しかしやはり色々な意味で海外に行くことはハードルが高い。そうしてせめて図録か展示されている写真の情報だけでも得ることができないだろうかと考えて、上海にいる人、あるいは近々上海に行く人、上海に知人がいそうな人を挙げてみている。上海の場所をグーグルマップで検索する。上海は近い。

夜の日記

・201909092350。台風一過で熱帯夜が戻ってくる。去年と今年は家でエアコンをつけることを解禁してしまった。それでも体調のため、電気料金のため、そして何かのため、あまりそれが普通になってはいけないと思う。

 

・木曜日から週末を挟んで月曜日まで業務の新学期立ち上げで慌ただしく過ぎる。少し自分の勉強・研究から離れる。これも夏の業務の余波なのか。しかしこれから本格的に作業に入らなくてはいけない。自分に向かって唱える。

 

・サブで走らせると考えていた清野賀子についてのリサーチが面白くなってきてしまったという事情もある。2000年代の雑誌、ハイファッション、広告、リラックス、スウィッチ、それらの雑誌に掲載された清野賀子の写真はどれも面白い。インタビューで答えていた「『ふと雑誌を開いてみたら、とてつもなくいい写真が載ってた』みたいなことが私は好きだから」という言葉が、まったくその通りに実践されている。一見すると見逃してしまうようないい写真。『至るところで 心を集めよ 立っていよ』の「至るところ」は、ふと開いた雑誌のことであるかもしれないと思った。その試みは佐藤真の(構想のみで中断された?)『トウキョウ・スケッチ』と重なるところもある。と思い立って書いてみて、その二人が近い時期に自ら命を絶ったと言われていることをどう考えればよいだろうか。簡単には考えられない。

 

・昨日は久しぶりの友人二人と武蔵小金井の焼き鳥屋で飲食。店の大きなテレビで迫る台風を感じつつ、近況を交換。早々にあいちトリエンナーレに行ってきた友人の話を聴きながら、作品と呼ばれる実践における制作者のプライベートあるいはパブリックな部分について意見交換。社会的なメッセージを発することから撤退しているように思えることをそのまま「生活保守」と批判こともできない。というか他者が簡単に批判できることなど何もないのだと強く思う。作品の、実践の、活動の、発言の底にどのような欲望が見えるか。そういうことを話したかもしれない。久しぶりの友人との久しぶりの飲食だったから、アルコールを摂取しすぎてしまった。雨の中をタクシーで帰宅。

 

・かつて(といっても10年くらい前)秋とは焚き火の季節だった。昨日来られなかった友人にどんなメッセージを投げられるだろうかと考えていて、思い出したのは多摩川沿いで焚き火をしたことだった。「また、焚き火でもしましょう」と送る。かつての偶然のアクティヴィティが自分の歴史に確かに刻まれていることがある。集合写真で覚えている。何かを綿密に準備して行う。そして集合写真を撮る。それは戯曲を書くこと上演すること、そしてアーカイブすることに似ているかもしれない。