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  映像研究

言葉の終わり

 
・201711280919。開館と同時に中央図書館。に入る。今日はここで作業を進めよう。昨日は大学で11時から20時まで。食べたり休んだりしている時間を除いて約8時間。このあたりが最低ラインだと思う。本当に終わるのか、終わるということができるのか、まだわからないけれども、昨日作業をしている中で「ここらへんで終わるしかないのではないか」といういわゆるひとつの「落とし所」が見えてきた。落とすことは大切だ。最後にはドロップする。落とせないならば落ちてしまう。


・文章を書く作業、言葉を扱う作業の難しさに、ほとんど絶望的な気持ちになりつつ、しかしそのなかで一瞬楽しいと感じたりもする。この実感を覚えていよう。自分の言葉を一度まとめてみて、しかし他者に読まれることでもう一度読み返したならば、全然違った印象で読めるということ。「だめじゃん、これ」というその感じは大切なのだと思いつつ、しかし振り返っている場合ではないから進める。


・色々なことを他の人に任せて、あるいは放り投げて、作業をしている。木曜日からはまた業務が再開してしまうから今日と明日が山場的な何かであることは間違いない。罪悪感を感じることが多いが仕方がない。


・ダナーのブーツを久しぶりに磨いて、その色々な部分がほつれた様子を見ていると家族に「どれくらい履いているのか」と尋ねられたので「ちょうど、10年」と答える。調べたならばそれを購入したのは2007年の12月8日だった。10年前の自分から送り届けられたのは、物であると同時に記憶でもある。あらゆる物は時間が圧縮されているという意味において化石であり、化石であるという意味において写真に似ている。写真を見るように物を見て、物を見るように写真を見るのだということ。中断。