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  映像研究

選挙

 
・カーペットにびっしり虫がついているという悪夢で目覚める。選挙とは関係がない。「選挙」について自分なりに考えて、人の発言を聞こうとする、そうした期間が一区切りされる。しかし今回は「人の発言を聞く」ことが、正直に言って恐ろしくて仕方がなかった。賛同するにせよ反対するにせよ他者の考えを聞くこと自体が何か自分を重くする。そうしてまた、自分の発言をすることができない。即興的に何かを話し出すことはできるけれども、そしてそれはきっと嘘ではないのだけれども、どうにも自分の言葉と考えに納得することができない。絶え間なく批判(愚かさへの非難)をすることができるし、ソーシャルメディアでそうした声を大きくすることに微力な反応としてクリックを表明することはできる。「だが、一体それがどうだというのだろう?」と一挙にメタ化できるはずもなく、しかし呆然とするのでもなく、「反省します」や「精進します」の一言で消えてしまいたい(消してしまいたい)気持ちになるけれども、たぶんそれも違う。


・正しいかどうかを問うことなく(正しさや美しさに身を委ねることなく)、誰に攻撃されるかもしれない状態で、なお思考の過程を記すことをする。少なくとも自分はそうすべきだと考える。


・「戦争をしたいのですか?」という言葉も、その言葉の力も、すっかり引き抜かれてしまたように思う。「戦争をしたいのですか?」という言葉に対する現在の適切な対処法として「むしろ戦争をしようとしている隣国があるのでしょう」と言う人に対して、その前提自体に反論するのではなく(それはまったくの妄言ということでもない)、ではいったい何を言えるのか。むしろその人の中では、もう戦争は始まってしまっているのだろうか。戦争を恫喝として思考を眠りこませようとしている(というように解釈される)言葉と、現実的な情勢に即して思考しようとしている(と思っている)者の言葉の応答があったとして、それがいったい何かに繋がるのだろうか。小競り合いしか起こらないことは予想できる。


・社会運動を日々の労働と取り替えることができたならば、精神は安定するのだろうかと、あらゆる方面から叱責されそうなことを、考えてしまう自分がある。あるいは労働を社会運動として解釈することで、日々の淀みを忘れようとしていることも同様である。あるいは自分がいかに楽観的であるかということについて。


・土曜日には月に一度出ている勉強会があり、そこでも憲法について考えた。人が集まって人の話を集中して聞くことには、そのこと自体に力がある(「救い」と書こうとしてやめた…)。話を聞きながら、それぞれの人の思考が飛躍する。考えの枠が組み替えられる。「公共性」という概念を、プライベートという言葉との対比ではなく、むしろ「共同性」との対比で考えたならば、ブラックホールのような、時間と空間を拡張するような(包括ではなく)、別の意味を持った語として「公共性」を言うこと/読むことができるのかどうか。現在の損得を超えて過去と未来に伸びてゆくような「公共」とは?ここで考えるのは「死者」「死ぬこと」であるのだが、自分の考えはまだ追いついていない。「日本固有の問題」ということを、どこまで考えるべきなのか、ということもわからない。悔しいかな、ここまではわかった、と投げてみた言葉はいつも対岸まで届かない。どうしたら届くのか。中断。


・なおもtwitterなど見てダメージを受けてしまう。しかしこれが現在であるのだと。「日本はそれでもまだ自由な国である」であるという、そういうことも確かに言える。言論は統制されていない。自由にソーシャルメディアに書き込み、自由に集まり、場所や環境があれば相当に自由な発言をすることもできる。しかし。


・そう考えてみると「すべてがソフトなサーヴィスに変わりつつある現在」という考え自体が、ある種のテキストにすり寄った、言葉に由来する思考なのだろうか。電車の中でスマートフォンをつるつるしている人に何か怒りのような感情を持っても、本当はそれが敵ではないのか。しかし非常にバイアスがかかった視線であることを思いつつも、やはりスーツを着たかなりの高齢のしかもほとんどは男性がスマートフォンタブレットでアニメーションを見ていたりゲームをしていたりすることに、自分はどうしても「気味の悪さ」を感じる。時に満員電車でそうした姿を見続けたならば「いい加減にしてくださいよ」と、泣きそうな気持ちになるが、それはもう自分の何かが違ってしまっているのか。あるいはそれは「自分の内なるスマートフォンをつるつるする時間」に脅かされているだけなのか。その怯えを周囲に投影しているだけなのか。そうなのかもしれない。まずもってそのことを反省する必要がある。もしくは絶対的に覚悟が足りない。


・「それは『ソーシャル疲れ』という現代的な症状ですね」とか言われるのだろうか。もう5年くらいずっと疲れているのだが、他の人は本当にこんな苦行に耐えながら生きているのだろうか。もちろんまだ決定的な何かには達していないからこそ、このように書いたり生活したりできている。しかし盗まれているのだ。引き抜かれている。決定的に損なわれている。とんでもない辱めを受けている。電子メディアによるコミュニケーションに触れるたびに感じるのは、そうした感覚だ。


・書くことで整理をしているに過ぎない。しかし一度自分が積み上げた考えをかなりのところまでバラしてみたところで「技術と人間についての問い」は残るかもしれない。人間と道具について。あるいは技術としての身体について。人間の特異性を感じることはあっても、個別性については限りなく疑わしい。人は誰しもそれぞれ変であり変化する。人はそれほど違わないから、環境と技術によって、どうにでもなるはずなのだった。そのことを可塑性という言葉で言いあてようとしてみる。リキッドではなく可塑。技術と身体の間にスクリーンを仮設してみる/スクリーン=映像はいつでも技術と身体の境界に現れるものだったのか。イメージはいつでもXと身体との境界に現れるのか。それは何とも不思議な体験であったはずだ。その不思議を宗教ですら転用して(あるいはオリジンだと言い張って?)あるいはスペクタクルはもっと素朴に悪用した。一方で不思議は解明の対象になる。しかしその不思議はそう簡単には解明されないだろう。


・その不思議が倫理に結びつく可能性があるならば、それは「触れない(触りたくても)」ということなのではないか、というこれは一から十まで仮説だ。あるいはだからその不思議を「イメージに触れるのではなくイメージの方が触れにやってくる」ということもできるのか。いずれにせよ「触れない、から、見る、見つめる、想像する、想像と見るを往復する、時に立ち尽くすもしくは位置を変える、そして、祈る、あるいは呪う」それが見ることの一部であって、そして視線を送っても、その視線に乗せて身体を送り届けようとしても、届かない。そこには哀しみがある。信じることはキラキラしたものではなく、そうした意識のはたらきの絡まり合った総体で、それは美しくもあるがそれより恐ろしい。それがひとりの人間の特異性と距離の関係である。


・こうした感覚と感覚から展開される当てずっぽうを手掛かりにして、たとえばベンヤミンボードレール論を読むべきなのかもしれない。写真の発明に思考を促された19世紀の言葉を読みながら、しかし単純に相対化するのではなく、21世紀の現在におけるたとえば人工知能の怖れについて考えてみること。逆張りってことでもなく、素朴な違和感を手放さないこと。同時にその思考を展開すること。中断。