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  映像研究

書く習慣あるいはつぶやきに近いもの

 
・書かなければ忘れてしまう。あるいは現に忘れてしまったことがある。あるいはそれは忘れてしまう程度のことだったのか。日々考えることは「シンプルかつ面白おかしい洋服を着たい」ということで、例えば胸のポケット部分に金のコブラの刺繍がされたシャツを好んで着ていた2016年の夏。長距離旅行に行くために購入したtevaのサンダルもこの夏らしい。アロハシャツ転じてキューバシャツも良い。涼しくなってもシャツを着たいと思う。限られた衣料品を楽しく使いたい。


・山について。友人たちが夏山に出かけていることをSNSで眺めつつ、しかし自分は業務にかかりっきりになっていた。数年前ならばこの連続する業務をまた別の「修験道」として理解しようとしていたかもしれないが、そして今もなおそういった気持ちの持ちようはあり得ると思いつつも、今はどうしても山に行くことができない。生活の中に「程よいスパイス」としての山行はない。次に山に登る時は、今の生活とは別の生活を指向/試行している時なのだと思う。しかしそれでも忘れない。頭の片隅にいつも山を。


・実写映像と物質的イメージを深く考えてみたいと思えば思うほど、アニメーションやコンピュータ・グラフィクスに対して全然興味が持てない。持てなくなってくる。なってくるどころか、それはもはやひとつの仮想敵だ。実写映像の上に乗せられた過剰な装飾としてのデザインされた映像や、まるでクリスチャン・ラッセンのようなぎとぎと&ぬらぬらした背景のアニメーション作品や、スマートフォンとARを活用した新しいゲームや、そういった商品やコンテンツが人の思考にどう作用するかまったく考えない研究機関にも、脱力するような気持ちにならないこともない。そういたなかでやはり肉体がひとつ根拠になる。