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  映像研究

納涼的な

 
・201307121327と記すことから書きはじめてみた。暑さを避ける。すなわち避暑。避暑地としての喫茶店。カフェ的なお店。ファミリーレストラン。去年の夏までならば八王子市に住んでいたのだから八王子駅の近くにある「TUBO」というお店へ行き窓際のカウンター席でパソコンに文字を打っていた。インターネットがフリーなスポットだった。ランチのセットのドリンクがおかわりできた。晴れたり曇ったり夕立が降ったりするのを眺めながら文字を打つ。眠るわけにはいかないほどほどの緊張感が良かったのかもしれない。稲城に引っ越してまだそれに匹敵するような作業スペースを見つけることができていない。であるならば大学の図書館に来た。傍らにたくさんの本の存在を感じながら何事かを考えたり何事かの文章を打ったりすることも、もちろん良い。


・そういえば昨日一昨日と欲しい写真集を探し求めて夕方から都内へ出た。一昨日は外苑前のワタリウム美術館の地下にある「オン・サンデーズ」へ行き、昨日は代官山の「蔦屋書店」へ行った。蔦屋書店のあの空間の感じ、おしゃれと言うことが野暮に感じられるようなあの感じに圧倒されつつ、そういえば夏は本屋だった、夏には暑い中歩き回って本屋をはしごしたりするのがどうしてシチュエーション的にしっくりくるのだろうかと思って、それは夏休みの自由研究の記憶があるからなのかどうなのか。いつでも、今も、自由な研究は続いているかもしれない。


・今週起こった重要なトピックスとしては「ムカデに指を噛まれる」という大事故が発生したことで、ホラー映画のように叫んだ。視覚的に驚き、痛みに驚き、人は叫ぶ。そして叫んだことに驚き、驚いていることに怯え、我を忘れていたことに気がついたならば、そこから先の判断が冷静なものではなくなってしまう。救急車を呼びかねなかった。救急車はさすがに違うかもしれないと(辛うじて)思うことができたのだから、噛まれた右手をまともに使えないような状態で、何とか検索窓に「ムカデ 刺される」と打ち込んだならば、すぐに「ムカデは刺すというよりも『噛む』という方が正確です」という検索の結果が出てきて、慌てて「ムカデ 噛まれる」で検索し直したかもしれない。正確さは大切。


・肉体的な痛みと、対象がどこにいるのかわからない恐怖、そしてそのような生き物と継続的にお付き合いしていく自信のなさ、あらゆる不安を前にして、人は「人間にとって有害であるような強力な殺虫剤」を手に取るのか。そしてかつて宮沢章夫という人がエッセイで書いていたけれども、なぜ殺虫剤のパッケージにはあのようにリアルな虫の様子が書いてあるのか、もしかするとちょっと好きなんじゃないか。そう思ったのは、本当に恐ろしい思いをしたときに、人はそのパッケージのイラストにすら触れたくないと思ってしまうからだった。あるいはなぜかそのことから、高校の頃桜並木に毛虫が大量発生したときに、それを駆除することにひとり(かどうか記憶は定かではない)反対していた政治経済の先生がいたことで、その先生は「毛虫を駆除したならば、それを食べていた鳥が食べるものを失い、そしてそのことによって…」という生態系が崩れてしまうということを、その意見の根拠にしていたように記憶しているけれども、恐怖にすっかり心を持って行かれたような状態で、例えば自分は「生態系…」と言えるのかどうか。これを他者の問題として考えないこともない。


・201307131356と記して、夏の出来事を回想する。恐い話。恐い話はディテールが重要だった。この恐い話の場合は「ムカデが靴下の中にいた」というディテールが重要なのだと思う。それ以来数日間、いないとわかっていても(本当にいないかどうかはわからない0%ではないつねにいつだって何だって)靴下を履くときに、一度裏返して(注意深く)それから履かなければ落ちつかなくなってしまったということで、そういうことを人はトラウマというのか。そしてこの痛みをどのように形容すればいいのか。伝達の問題として考えないこともない。201307131401。気温は今日も35℃を越える。