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  映像研究

映画を観る、言葉を話す

 
・火曜日の業務のあと大学へ向かって『去年マリエンバートで』を鑑賞する火曜日。映像に夢中になる時間を何よりも贅沢だと思いながら、移動しながら、映像の中で/あるいは映像とは関係なく、人間が言葉を話すことについてずっと考えたいと思っていた。言葉を話すことはいつもとても普通になされているようで、そして成長とともに言語は自然と獲得されるようでいて、そして人と人とのコミュニケーションは言葉を「使って」透明に行なわれるように思えるのだとして、しかし、それは、実際は案外と非常に複雑なことが行為されているのだということを考える。


・数日前に「CINRA」のウェブサイトで数ヶ月前の記事だった高木正勝という人のインタビューを読む。自分は高木正勝という人について、以前はあまり面白いと思わなかったのだけれども、東京都現代美術館の『トランスフォーメーション展』の映像を観て以来、すっかり面白いと思うようになった。そして音楽にも興味を持つようになった。それはさておきそのインタビューで「最初の音は適当に決めて、その音のイメージを大切にしながら2つ目以降を決めていく」というような内容のことを話している部分があって、音楽を作るプロセスについては、わからないから想像するしかないのだけれども、しかし何かを実際に行為することにおいて、そのような感覚をとても良いなと思った。


・例えば、言葉を話すとき、むしろ端的に「(何かを)話す」とき、まず初めに「えーと」とかがあったとして、その「ーと」の「と」の発音を自分のからだに響かせながら、何か次の言葉を引き出しているような感覚があるかもしれない。そして「えーと」の後には「何かわかんないんだけど」とかがするりと忍び込んできて、その「ど」が自分にひと呼吸おく時間の猶予を与えてくれる。軽く息を吸い込むかもしれない。そうしてまた別の発音が始まるだろう。こういう連続的な(それ自体意識されないような)アクションが、それ自体行為そのものとして行なわれているであろうことを面白く思う。


・だから言葉は、話すことは、発音する行為の連続でしかない、ということについて考えていた。言語に、文法に否定形があるということとは違うレイヤーの事柄として、話すことの連続性が、その連続性が発生させるような肯定性が(否定性の否定が)あるのかもしれない。それは「もしも言い間違いをしたらその良い間違いを正すような(肯定的な)行為をしなければならない」というようなことかもしれない。