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  映像研究

抽象と映像の夏、2012年の8月・その21

 



田中功起という人の「原因が結果」という名称の展覧会、そして映像の存在を思い出していたのは、原因とか結果とかについて考えていたからで、それは「原因と結果」の関係からどうしたら自由になれるのか、いや自由になるという言い方は適当ではなくて、もう少し踏み込んで言うならば「原因と結果という思考法」をどうしたらやり過ごす(あるいは時には戦う?)ことができるのか、ということを考えていたからなのだけど、そしてまた同時に、このような問は恐らくは数年前、具体的にはこの映像作品がつくられた2005年前後に、色々な場所で、色々な人が考えたのでもあろうし、そしてそれはきっとその時、その場所(この場所でもある)において、有効な戦術/方法/その他、だったのだとも思うのだけれども、さて、今はどうだろう?今はその時とは少し違う時であるようにも思う。


・しかし自分は今になってようやく(誰にとっても考えるべき事柄に関しては考えるべき時が来るのだとして)そのような事柄を自分にとって多少なりとも切実な?事柄として考えたりもするのだけれども、そこでどのような言葉を提出できるのか。そこでどのようなイメージを提出できるのか。どのような考えを示すことができるだろうか?そんなことを昨日業務の間、少し空いた時間に(許される範囲で)考えたりもした。


・質問をされる種類の業務だから質問をされればもちろんなるべく丁寧に答えようと思うのだけれども、しかし「それ、本当に質問しなきゃいけないの?」という質問に対しては、それ相応の対応をすることも、回り回って適切な対応であるようにも思う。何が言いたいかと言えば「何も考えずに質問をしてはいけない」という、とてもシンプルなことだ。そしてまた「自分がした質問には必ず答えがあると考えてはいけない」という、これもまたシンプルなことだ。「質問」と「答え」の関係から、「質問と答えという思考法」から、どうしたら自由になれるのか、いや自由になるという言い方は適当ではなくて、もう少し踏み込んで言うならば「質問と答えという思考法」をどうしたらやり過ごす(あるいは時には戦う?)ことができるのか、ということを考えていたのだった。話はまたもとに戻る。


「答えを求めて問を発しないこと。」「数えないこと。」「出来事を原因の結果だと考えないこと。」「出来事を出来事(それ)として捉えること。」と、ノートブックにメモしてあった。「プロセスという語を手段と取り違えないこと。」「プロセスという語も結果としないこと。」「部分が全体の部分にならないようにすること。」とも、ノートブックにメモしてあった。同じことを繰り返している。記録の記録。


・そして「理想を持つことを放棄してもなお、人としてのかたちを留めること?」「むしろそのことによって、得られる、知られる、感じられることがあると考えること。」とも、記してあったけれども、これは自分でも一瞬何を考えいたのか思い出すのに時間がかかった。それは数日前に友達と酒を飲みながら主に「家族」についてわいわいと話していたときのことをふと思い出して、そのことから考えたことをメモしたのだった。メモのメモ。


・「理想を持つことを放棄する」というか「『あるべきかたち』のような考え」を自分は大抵持っていないな〜という話だった。だから「あるべきかたち」と「現実」の間で思い悩むということが、これもまたあまりない。そしてその「あるべきかたち」のようなイメージ(?)は、しかもどういうわけか「空間化された時間」に存在しているのか、どうなのか。時間を数直線のようなものと捉えて「この地点に存在しているはずの…」とか「もう通り過ぎてしまった地点の…」とかいう風に考えている人の話を聞いていると、どうにも居心地の悪さを感じるのはどういうことだろう?と考えたりもしたのだった(普通の居酒屋トークならば普通に返す)。


・それで、それは、べつに、とくに「こちらの考え方が正しい」とか、あるいは「こちらの考え方が平和」とか、もしくは「こちらの考え方がオシャレ」とかですらなくて、ただ、自分は、そう思う。宗教的なメソッドとしての「現在しかない」というほどの強い考えではなくて、ただ「時間は空間ではない」と思う。そしてそのことと「原因と結果のこと」や「質問と答えのこと」は関係がある。理想やあるべきかたちということを考えないという姿勢をとるとして、それを「let it be」的な自堕落(イメージです)に短絡させるのではなく、むしろある種の倫理として鍛え上げていくこと。そういう試みが当然のように、モダンも、ポストモダンも貫通して、芸術にも、哲学にもあったに違いない、とか言うならばそれは「let it be」に失礼なのか、どうなのか。


・夏の終わりに宿題の進み具合について。その断片。そのメモ。