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  映像研究

新しさ

 
・新しい愛、新しい灯り。そういう歌い出しの歌が14年とか前にあってそれは確か晩秋だか初冬だかにリリースされた歌で自転車に乗りながらいつも歌っていた。そして今、新しい、と口に出してみて、その言葉を発音した時の質感が好きだ。わざわざ確認する必要なんてないだろうと思いつつも、自分で自分の考えを整理するために確認してみるならば、その「新しい」は「トレンディ」とかそういう意味とはまったく関係がない。もっと普遍的に、今の時間が次の時間にもりもりとめり込んでいくような新しさ。例えばそれは季節のような新しさ。落ち葉とか霜とか見ると「めり込んでるなー」と思う。だから晩秋だか初冬だかは(も)とても新しい。



・その新しさの中にいる今。あらゆる場所が当たり前に最前線であるような今。『うかたま』という雑誌の「おうちで発酵食堂」という特集は良かった。先週に東京都現代美術館で観た『建築、アートがつくりだす新しい環境ーこれから”感じ”』という展覧会のいくつかのものはとても良かったし、フェスティヴァル強化期間に慌てて読んだので再読している國分功一郎という人の『暇と退屈の倫理学』も良い。何より人と会って話をすることが良い。良いことはたくさん在る。



・それで、しかし、だけれども、今、どうしたってTPPについて考えたならば、言葉を失う。TLで、ニュースの速報で、今の状況が次々に示されるけれども、どうしたって事態は進行してゆくばかりで、何かのボタンの掛け違い的に、エラー的に、いま進んでいるルートを外れる可能性に向けて祈ることしかできない。嫌だなぁ。本当に嫌だ。損得以前に損か得かで議論をすることが嫌だ。しかし損か得かではない「何か確かな考えのようなもの」を示すことがとても難しく、差し当たってまるで不可能なように思える、ということに関しては、確かにそうなのだと思う。



・砂漠に水を撒くようなことと、砂漠でも生活をしていくこと。砂漠でも生活をしていくためには、砂漠に水を撒いている場合ではないのか、どうなのか?例えば水を撒くことを当番制にしてみたらどうかとも思うけれども、誰も当番を引き受けようとなどしないのか。当番で撒いたり撒かなかったりするような勢いでは意味がないのか。そもそも砂漠に水を撒くことに意味がないのか?しかし「意味がない」ということがあり得るのか。砂漠に水を撒くことはスコールのような雨を待つための雨乞いの儀式のようなものなのか。わからない。でもこの場合水は在る。水は時間だと思う。労働から免れた時間が寄り集まったならばそれは泉のようなものになる。広場に現れる泉のような「人びと」。