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  映像研究

太平洋の距離の想像

 
アメリカという国のウォール街という場所でデモが起こっているらしいというニュースを目にする今日は日曜日。「5000人」が、とか「700人」が、とか数字で記されていることだけしか情報がないのだけれども、その「デモ」と呼ばれる抗議行動は一体どのようなものなのだろう?超素朴に「現場で見てみたいな」と思う。どういう顔をした人が、どういうプラカード的なものを掲げて(読めるかどうかは不明)、どういう感じで歩いているのか、知りたいと思う。そしてインターネットの記事を読んでいると「アドバスターズのカレ・ラースン」という名前が出てきて、それを読んで「そうなのか」と思う。カレ・ラースンという人の『さよなら、消費社会―カルチャー・ジャマーの挑戦』という本を本棚から出してぱらぱらしてみる。2006年に出版されている本で、しかし自分が読んだのは確か2008年か20099年くらいで、それを読んで自分は「いいなぁ」「この『クール』っていうのは『おしゃれ』ってことだよなぁ」と思っていたけれども、そして時は流れて今だ。


・想像する。あるいは想定する。例えばいま日本で「原子力発電に反対するデモ」に対してあまり好意的に思わない、特にデモという表現それ自体を好ましく思わない人にとって、アメリカという国で起こっているデモと呼ばれる何かはどのように想像されるのか。その想像を想像する。「何か今度はアメリカでもデモとか言ってるよ。面倒だなぁ。」という感じなのかどうなのか。「日本のデモは何かよくわからない若い人がやっているけれども、海の向こうで起こっているアレはきっともっと切実なデモなのだろうな。」という感じなのかどうなのか。「まぁ、どっちにしろそのうち落ち着くだろう。」という感じなのかどうなのか。わからない。あるいはまた、たまたま目にした記事で読んだ「明確な目的はなく」とか「経済に対する抗議から温暖化の問題にも派生」というニュアンスにどういう意味が込められているのだろう?あるいはそのような記事を読んで、誰かはどのようなことを考えるのだろう?


・例えば「経済政策」と呼ばれる何かと「格差是正」と呼ばれる何かと「戦争」と呼ばれる何かと「環境問題」と呼ばれる何かと、何かと何かとが色々な仕方で、しかし確かに繋がっているということを、誰かはどのように想像するのだろうか?自分だってその繋がりの仕方をすべて説明することはできないけれども、しかし誰かにはその繋がりを想像するという理解があるのだろうか?デモンストレーションは単一のテーマをプレゼンテーションするようなことではないのだと思う。そうではないからこそ「言いたいこと」がある人がどこかからわらわらと集まってくる。もちろんまったくバラバラではそもそも集まりようがないと思うけれども、それでも色んな考えの、しかし「何かを望ましいと思う感じのようなもの」を持った人たちが集まる。その「何かを望ましいと思う感じのようなもの」が「繋がりを想像するという理解」なのだとしたら。



・それで偶然なのかどうなのか最近もうよくわからなくなってきているけれども、日曜日の夜には職場の近くのおしゃれなスペース「カフェ・ラヴァンデリア」にて『END:CIV』という映画の上映。偶然なのかどうなのか最近もうよくわからなくなってきているけれども、色々な友だちが来ていて、上映とトークの合間には話をしたりもした。映画自体は(例えば)グローバリゼーション(と呼ばれる状況)に対して、直接的な行動が必要であるのだし、時にそれが法をはみ出すことだってあり得るのだし、というか「直接行動を自制する考え」が運動自体を困難にしているのではないか、ということを「暴力を推奨しているわけではない」という注釈を付けた上で、しかしはっきりと述べているような、その主張自体はもちろん一定の必然性を感じつつも、しかし自分の生活とか少し距離を感じるような、そういう内容だった。それは「音楽で踊りながら行進していると逮捕されるかもしれない」とか「そのことがマス・メディアに取り上げられた時には『暴徒のような人』として報道されかねない」とか「そのようなことを多くの人がさして疑問に思っていない(ような気がする)」こととかを思う/思い出すと、距離を感じるということなのだけれども。


・しかし、そして、なるほど、と思ったのは「『デモ』は『直接行動』ではない」という考え方について、あらためてそう言われるとそうなのだなぁと思う。デモンストレーションはアピールなのだと思う。だから直接行動とは、例えば「作られるべきではないと思っている物」が作られようとしているならば、その現場に行って作ることを止めさせようとすること。例えば「作られるべきではないと思っている物」を作ろうとしている人が、作ろうとしている物がある場所に行こうとしているならば取り押さえること。例えば「作られるべきではないと思っている物」を作っている手を払いのけようとすること。あるいはまた「作られるべきではないと思っている物」が既に作られてしまったならば、それを壊そうとすること。「法案が通っているから」という人に対して、法案とは違う次元の根拠をもって立ち塞がること。その行為を想像すると、また今までには考えなかったことを考える。クリエイション、という言葉が、いつも、つねに、正しい(?)価値を持っていると思っている自分にとっては、また距離のある想像が必要になる。その距離を感じて、想像を進めつつも、とりあえず、ちなみに、いくら「いいね!」をクリックしてもね…っていうところはそれはそれとして、そうだなと思ったりもする。