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  映像研究

主語から飛ぶブーメラン

 
・デモンストレーションのことを考えている。日曜日のデモンストレーションについて、2日前の「9.11 新宿原発やめろデモ!!!!!」について考えている。デモの最中に逮捕された人たちは今も釈放されていないようなのだった。自分は後半から合流したこともあって、逮捕されたその場所(それぞれの場所?)で何が起こっていたのかはわからないのだし、youtubeなどで見ることが出来る記録された映像から、その雰囲気は何となくわかるものの、最終的に「逮捕されるようなことが起こったのかどうか」はわからない。それは5月7日の渋谷でのデモの時もそうだ。仮にすぐ目の前で見ていたとしても、本当のところはよくわからない。



・よくわからないなりに、当日自分が歩いていた時の印象から、今考えていることは「なぜこんなにもデモンストレーションを楽しくすることが難しいのだろう」ということで、考えていたところにちょうど小倉利丸という人が書いた『日本のデモに表現の自由はない』というテキストを見つけたならば、自分はそこに書かれていることを、基本的には「そうなのだろうな」と思う。「日本のデモは、」と言われるような現在のデモのあり方、一般的なデモのイメージ、そして警察とデモンストレーションの関係などは、あくまでも任意の、しかもこの数十年のものなのだろうと思う。あるいは更にそれより前は…という歴史の捉え方もあるのかもしれないけれども。



・それで、自分はこのようなテキストを読んで「そうなのだろうな」と思う一方でしかし、「権力」という主語を使うことの、何か微妙に微妙な、しっくりこない感じ、というのもあり、それは一体どうしたらよいのだろう?「その言葉を主語にすることが出来るけれども、そしてそれを主語にしている文章を自分は有り難く読むけれども、自分はその言葉を主語にしない」ということがある。それは言葉が自分の身体に「しっくりくるかどうか」の問題だ。自分の場合は「権力」という言葉を主語として使う、つまり「権力」が自分に対して何かを為す、と考えることで、何か現実の空間で起こっている出来事に対する実感から離れてしまうように感じることがある。のだから使わない。基本的にはあまり使わないだろうと思う。時々は使っちゃうかもしれない。



・そして、であるならば、現実の空間で起こった過去の出来事を、体験することはできないのだから、学ぶ。歴史に学ぶ。歴史を学ぼうとすること、それも唯一の歴史ではなく、可能な限り多様な歴史を学ぶということは可能なのか?「権力」という言葉を使うにしても使わないにしても、支配する力に抵抗する活動や、支配する力から自由であろうとする人びとの生活を/から何かを学ぶということができるのだろうか?今そんなことばかり考えている。


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・「主語」ということから思い出したのは、先週末に業務終了後に同僚と話していた話の続きで、それは「『質問』があれば『答え』があるのか?」という話で、また「『欲望』に根ざさない言葉」という話もした。言葉はブロックのようなものだから、主語と、動詞と、そこに疑問形を、それぞれカードをめくるように偶然繋ぎ合わせたならば、例えば「なぜ・人を・殺しては・いけないのですか?」という文章だって生まれてしまう。それはプログラムのバグのような不思議な文章であるようにも思えるのだけれども、しかしながら、それが一見(というか普通に)「質問」のような形を取っていたのならば、人はきっとそれに「答え」として返答しようとしてしまうのだろう、というような話。「なぜなら〜〜だから、人を殺していけないのだよ」という「答え」。でもそれはそもそも、本当に質問として成り立っていたのか?そしてそれがもしも「質問」であるとして、それに「答える」ということだけが、許された選択肢なのかどうか、というような話。



・例えば「なぜ・人を・殺しては・いけないのですか?」という困った問いに、啓蒙と抑圧によって答えようとするのが『モダニズム』だとして(仮に/とりあえず)、では『ポスト・モダニズム』ならばどう答えるのだろう?という問題を設定してみる。時々自分が他の誰かと話していて思うのは『ポスト・モダニズム』という概念が、とても歪められて理解されているのではないだろうか、ということで、自分はもちろん『ポスト・モダニズム』の何者でもないですけれども、特に「ポストモダン」などと縮められようものならば(あるいはもう「ポスモ」などと縮められようものならば)それはほとんど「根拠がない」「目的がない」「戯れである」「揚げ足を取るばかり」という印象ばかりが先行する。例えば「なぜ・人を・殺しては・いけないのですか?」という問いに対して(「ポスモ」ならば)「人を殺してはいけない、っていうのもまぁ、それはそれで任意だよね」とでも言い兼ねない、という印象ばかりが先行した概念だ。しかし、本当に、そうか?



・それに対して思うのは『モダニズム』に対する『ポスト・モダニズム』を「後期近代」と訳す感覚から、更に意訳して「より・機能的に」と解釈してみるというのはどうだろう、というようなことだ。つまり「目的」を諦めるどころか、その「目的」に本当の意味で忠実であろうとすることによって「『質問』と『答え』」という形式を内側から壊すような発想をしてみる、というようなことだ。例えば「なぜ・人を・殺しては・いけないのですか?」という困った問いに、啓蒙と抑圧によって答えようとするのが、どう考えても上手くいきそうもないと思ったら(それはただ単に「啓蒙したい」だけで実際に効果ないよね、ということになったら)どうしよう?例えば「なぜ・人を・殺しては・いけないのですか?」という困った問いを発した人を全力で抱きしめるかもしれない。抱きしめた結果その人がもうそのような問いを発しなくなったら、それは啓蒙することよりも「目的」を果たしている、というようなことはどうだろう?



・そして、だから『ポスト・モダニズム』の発想は「個別具体的」であることと相性が良いように思われるのだし、それが芸術的な活動であれば、メディア(素材)を越える。目的は「メッセージを伝える」ことにあるのだから、むしろあらゆる方法を試すことが必然となる。



・そして、だから『ポスト・モダニズム』の発想は「質問」に対して答えないかもしれない。例えば「なぜ・人を・殺しては・いけないのですか?」という困った問いに対して、むしろ「なぜ・あなたは・そのことを聞くのですか?」と質問で返してみるかもしれない。あるいは「なぜ・あなたは・そのことを『聞きたい』のですか?」という質問で返してみるのもありかもしれない。「欲望」の在処を訊ねるようなレスポンス。もしもそれで「なぜ・人を・殺しては・いけないのですか?」という問いを発した人が、猛烈に憎んでいる人がいるのならば、それは「なぜ・人を・殺しては・いけないのですか?」という問いとは関係がない「猛烈に憎んでいる人がいる」話だ。あるいはもしも「なぜ・人を・殺しては・いけないのですか?」という問いを発した人が、特に誰のことも殺したいと思っていなかったのだとしたら、それは「悪ふざけ」だ。



・そのようにして「欲望」に基づいて、困った質問に対して個別具体的に適切に対処しようとすること。適切な問いを立て直させようとすること。そのことが「主語」の問題に、ブーメランが弧を描くようにして戻っていくと思いきや、わからなくなった。明後日の方向だ。何らかのかたちでつづく。