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  映像研究

小さな集まりの中にある何かが大きな集まりのための何か

 
・日々の記録は例えば9月10日の土曜日。20時の業務終了後に代々木公園に向かうのは、そこで「ナイト・ピクニック」としてのお誕生会が行なわれるからなのであって、先に宴を始めていた数人と合流した頃にはすっかりと夜も更け、すっかりと隣のグループはレイヴ的なミュージックを流しだして、こちらは一方しかし、ゆっくりとした時間。持ち寄った食べ物を食べながらお酒を飲んだりする。「今日は『白夜』らしいよ」と言われて「へぇ、それはまた。」と答えてみたものの、白夜の意味が全然分かっていなかった。明るい夜だった。誰にも「いいね!」と言われない時間と空間。



・いつよりも自分比150%程度センチメンタルな秋。色々な場所で色々な人が色々な判断の結果として新しい生活を選びとろうとしている今。まるで日常と呼んで差し支えないようなムードがどこからともなく街や住宅街を覆ったならば、そのような中で、同時に、完全に新しい、新しいという言葉の意味が更新されるような新しさの、NEWなシーズンがやってきている予感。



・毎年「9月は自分にとっての夏休み」というコンセプト(言い訳)の元で、残暑に乗っかりつつビアガーデンへ行ったり、涼しさにそそのかされながら古着屋を回ったり、急に時間ができたならば読書をしたりしていた。そしてしかし2011年の9月は、それとも少し違った特別な季節になるだろう。あるときふと気がついたのは「学校を卒業してからも何となく『3年』くらいで自分にとってのひとまとまりの時間が区切れる」ということで、それは自分が住んでいる場所だったり、やっている仕事だったり、よく遊ぶ友達だったり、そういう色々なことによって、緩やかな「ひとまとまり」になったりならなかったりしていたのだけれども、きっともうすぐ、そうだ、その「ひとまとまり」が区切れるのかもしれない。



・年末年始に「2011年のテーマは『貯金』『怒り』そして『物語』です」と、完全に適当に記したのが、まったく意図しない理由によって、微妙に本当らしい風になってきている今。現実はいつだって予想を超える。そのことを知っている。そして、そのようなことをあらためて感じる日々においては、文章を記すことだって「自分が見ていることを描写する」という形式から緩やかにずれながら「自分が思っていることを記述する」という、つまり「(物を)語る」という、自分にとってはなかなかに珍しいチャンネルの存在に気がついたりしないこともない。それもまた新しい。そして新しいことは面白い(場合が多い)。そしてちなみにしかし貯金は難しい。



・今とは全然違った未来を想像する。今まで想像していた「今とは全然違った未来」とも全然違った未来を想像する。そしてその想像を乗りこなすような(波に乗るような/乗ったことがない波の/波の大きさの/波の飛沫の)想像をする。新しい何かを知ったならば、いつだってその新しい想像は始まる。新しく想像することからしか何事も始まらないのならば、例えば手当り次第に読んでみる本とかは、それはきっと「新しく想像すること」のための読書だ。



・秋の海のイメージ。水色の。雲ひとつない。