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  映像研究

腕の力を抜いてからだの前でぶらぶらするような期間の備忘録

 
・そういう感じがする。力を抜いてぶらぶらする。集中を持続させるためにぶらぶらする。あるいはコップ一杯の水を飲む。天候は不順。日々は業務。日々が業務であることから友人に「自分は『会社人間』なのではないか」と話したところ一笑に付された(使い方あってるのか)。「それは普通です」と言われた。普通だった。自分は言葉を話す業務だが言葉を話すその仕方がどんどん自動的になっていきながら、そして自動的になっていくからこそ、突然ポエトリーをリーディングするようなテンションに飛躍することがあって、それは自分にとっては何だか「この夏らしい」。そのような労働をする。そして労働の合間には本を読むかもしれない。



・測れば出る。月曜日の夜によく遊ぶ友達とよく食べにいくカレー店でよく話すような「男女交際の可能性と不可能生」について話していた瞬間、そんな話をしている瞬間にも、出るものは出る。出ているものは出ている。そして思いだす。憂鬱になるような事柄は、もういつも、どこにも、あるのだけれども、それをそれとして、困難を困難として、捉える。捉えた感覚を持続する、持続していくことが可能なのか。どうなのか。集中と持続は別の事柄だと思う。



・映像について考えている。映像について考えることが多い。例えば写真が発明されてからの約150年のことを考えたり、電車の中でゲームしたり通信したりするのが当たり前になっている夏休みの小学生をちらっと見ながら何事かを考えたり、家電量販店で展示されている3D関連の製品を眺めて不思議な気持ちになりながら何かの疑問を思ったり、数年前に撮影されたのだと思う自分や友達が写っている写真を見ながら何かを思いだす。映像だ。あるいは記録だ。そしてクラウド・コンピューティングだ(覚えたて)。



・「誰もいない森の中で一本の木が倒れたならば、そこに音は存在するかどうか」だかという設問の意味が未だによくわからない。音に関してはまだまだ全然分からない事柄が多いけれども、では「人知れず回されたカメラで撮影されていて、誰も見ることがない映像」は何なのか。この設問もまた、自分で立てておきながら意味がわからない。誰かがその場にいた出来事も記録としては誰も見返さないということがある。よくある。



・オクラとモロヘイヤ、そして空芯菜が主食。朝は大抵BERG。ときどきドトール。ビールを飲み過ぎない。