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  映像研究

見える葉っぱと見えない力

 
・「見える葉っぱと見えない力」と言ってみた。自分が「植物」と呼んでいるものはその「見える葉っぱ」であると同時に「見えない力」であるとか考えてみた。ずっと考えている。ずっと考えているし写している。写しているのは見えるイメージだけれども「見えない力」の断面でもあるのだとか、ぼやっと、あてずっぽうで、考えている。動物にもそういうところがあるのかもしれないけれどよくわからないのだから、やっぱり植物の、そのわかりやすさは凄い。そのような意味でいま植物に夢中だ。そして同時にどういう流れだか最近「ジル・ドゥルーズという人について書かれた本」を読んでいたりするのだけれども、そこには「そういうこと」が書いてあるような気もする。というか「そういうこと」について書いてあるようにしか読めない。しかし「そういうこと」について書いてあるようにしか読めないのは、自分の読み方が良くないのかなのかもしれない。



・図書館で『ドゥルーズ KAWADE道の手帖』という本を借りてきてみた。「没後10年、入門のために」というサブタイトルがついていて、まさに自分は「入門」したいのだからぴったりだと思った。色々な人がドゥルーズという人の書いていることをわかりやすく、かつ(何かの)役に立つように、そして恐らくは読む人にとって「おお、これは自分に関係のあることのようだ」と思うように、かどうかはわからないけれども、少なくともわかりやすい言葉で書いてある。その中の小沢秋広という人の『ドゥルーズと新しさ』という小論が良かった。「ドゥルーズの中でもっとも惹かれるところを、経験論の流れを介してスケッチにしてみる。そこからドゥルーズ哲学の大きな特徴の一つ、さらにその現在性の一つがみえるようにしたい。」という前提のすべてを共有できるわけではないなりに、そのスケッチを読む。写経する。


『哲学とはなにか』第四章「哲学地勢」における第八例は、イギリス経験論に対する美しいオマージュになっている:「礎を置くー建てるー住むという三位一体において、建てるのはフランス人、礎を置くのはドイツ人、しかしイギリス人は住む。テント一つで十分なのだ。イギリス人は習慣を驚くべき概念にしている。:習慣は、観照し、観照しているものを縮約しながら作られる。習慣(ハビトゥス)とは創造的である。植物は水を、土を、窒素を、炭素を、塩化物を、硫酸塩を、観じみて、それらを縮約し、自分の概念として、それらで充たされる(エンジョイメント)。概念とは、自らを作り上げている諸々のエレメント(要素)を観照しながら獲得される一つの習慣である。」こうした概念観からなる哲学は、わたしたちが一般にイメージするものとは随分違う。このように概念を創ろうとすれば、まず必要になるのは、「〜である to be」や「存在(being)」ではなく、二つのものをつなぐ「と(and)」となる。目指されるのは、「存在」に関わる一見「哲学的な」諸問題からは遠く、「新しさ」としての反復をもたらす縮約、AとBを一緒にするにはどうすればいいかというように、「と」に関わる問題になる。