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  映像研究

憲法Q条の提案

 
・3月17日の木曜日。事態は変化していくし余震も未まだまだ続いているが、それでも時間だけは過ぎる。東京のサヴァービアにて家からスーパーマーケットに車を出すことが今の自分の仕事のひとつ。忘れていたけれども天気は変わる。そういえば三寒四温。今日は寒い。色々なことを考えつづけていたが、ひとつ決めたことは20日の仕事を終えたら拠点を変えようということだ。もともとこの春は旅行に行きたかったのだった。そうして今は色々な人に会いたい。


・この期間、今までのいつよりも「マス・メディア」を見続けてきた。マス・メディアに対して不満を述べることは簡単だと言われるが、色々な種類の不満があるので、簡単な不満もあれば、ややこしい不満もある。しかしあらためて自分で自分が確認したいことは「ある場所で、ある出来事が起こっていること」と「マス・メディアがそれを伝える」ということは、同じものの部分ではないということで、だから個人的に(あくまでも今の自分にとって)テレヴィジョンの役割は小さいものになりつつある。


・そして、今は多くのメディアの中で「この国の名称」が、何度も呼ばれる。時に叫ばれる。例えば今起こっている「未曾有」の出来事が「東日本大震災」と呼ばれたならば、それは確かにそうなのだろう。確かにそうなのだと思う。でも、それでも、どうしても「この国を憂い」「この国を鼓舞し」「この国のために何かをしよう」という言葉に違和感がある。あるいは同様に「市場経済」を立て直すことを第一に考えて「今自分がやるべきことは『消費』である」と思うことも出来ない。それについての理由はもう少し考え中。


・しかし先月末にTPPの集会に行ったときに「グローバリゼーションが進んだ世界では、国よりも、国を飛び越えて活動する企業が、そして市場が非常に強い力を持つ」ということを再確認して、そのことも今思い直している。だから、つまり、そこで鼓舞したり、憂いたりしているものは、「国」と呼びながらも、別のものなのではないか。具体的な場所ではないのではないか。具体的な「場所」のことを考えたい。「土」のことを考えたい。だからもしも「それちょっと落ち着いてから考えようよ」と思われようとも、絶対(嘘、なるべく。)今起こっていることと、TPPのことを同時に考えたい。そう思って『季刊地域』のツイートをRTしたりした。



・そして、完全に唐突だけれども「経済」よりも、国の範囲を意識するのは、例えば「法」ではないか。だから今考えているのは(本当に、完全に、脈絡のひっかかりが弱いですけれど/備忘録だからそもそもこれは)「憲法9条」のことだったりする。10年ほど前から「改正」について議論が具体化して、ある時期などはかなりその方向に世論的な何かが傾いていたような気がする「憲法9条」。自分はそのことに対しては一貫して「現状維持」と「より徹底して言葉の意味に忠実になること」が必要だと思っていて、そしてもちろん今もそう思っている。そしてあの言葉と同時に憲法前文が「自分の言葉を使う感覚」からしても、わりとオシャレで好ましいと思っているのだけれども、それはきっと「多分に理想的で」「少々ポエティックで」「そして臆病な人ががんばって上を向いて話しかけている」ような印象があるからだ。それはまるで、卒業式の呼びかけのような、あるいはそう、合唱のような、そういう清々しさがある。それに対して「アメリカ人の誰それが作った・・・押しつけの・・・」とか、まぁ、そういった認識もあるとしても。


・それで今、まったく素朴に、だからこそこんなことはあまりないのだけれども、ほぼ100%の気持ちで、多少なりとも落ち着いたタイミングで「新しい憲法」が出来ればいいのになと思っている。仮にそれを「憲法Q条」とするならば、「憲法9条」が「戦争の放棄」であるのに対して「憲法Q条」は「原子力の放棄」。「えっ?今までばんばんやってきたのに急にやめるの?」「『減らす』とかじゃなくて『やめる』の?」「カノ国ハ極端デスネ…」という反応もまた良し。原爆を落とされて考えうる限り最悪な状態になってしまったことから作った憲法で60年だかを続けてきたのだ。ここまでの恐ろしい出来事の先には、原子力発電所に怒り、呆れ、あるいは怯えきってしまった人なりの、新しい言葉が生まれたって良いのではないかと思う。そしてそれはきっと「多分に理想的で」「少々ポエティックで」、とてつもない「怯え」と、なかなかの「怒り」をうまく織り込んだ、完全にオシャレで、未来的な、歌いたくなるような、新しい言葉になるのではないか。そんなことを今、もちろんこの国の、とある場所で、本当に考えている。*名称は仮です。