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  映像研究

レ・ヴュー、2010。

 
・雪が降り積もった山から帰って来て東京。この数日は「標高2XXXm」という概念が頭から離れなかったり、また歩きながら行動食を食べることによって必要な栄養を摂取するからだになっているものだから、三度の食事関係なく変な時間にお腹が空いてしまったりするのも仕方のないことだ。そうしてようやくテントを干し、寝袋やマットを広げて、コッヘルを洗って、すっかり日常の生活を思い出す月曜日の今。


・それにしても昨日は昨日で大変だ。日曜日の定例の業務を午前中でアレさせてもらって、昼過ぎから日比谷野音へ向かう。スチャダラパー20周年ライブにやってきたその時。会場の「東京(あるいは日本)じゅうの『裏原宿』という概念をギュっと濃縮したような磁場」も面白かつ痛快。キャップとハーフパンツ。白いTシャツ。そういえば10周年のときはオリーブ少女たちに疎まれながら無理矢理最前列まで行ってはしゃぎ倒し、その後スポーツ・ドリンク2Lを一気飲みしたことによって、翌日「急性腸炎」で病院に駆け込んで点滴をしたことも、今となっては良い思い出だ。急に思い出した2000年の春の赤坂。


・それでしかし20周年。ステージには次々にゲストが現れて、かせきさいだぁ『さいだぁぶるーす』、ソウルセット『SUNDAY』なんてもう生で見ることなんてないだろうと思っていた曲を見られたことも感慨深い。あるいは電気グルーヴ×スチャダラパーの『聖おじさん』の、あの美学のようなものをあれだけの人間が共有しているかんじは、冷静に考えると本当にわけが分からなくて最高だ。そうしてアンコールの『GET UP AND DANCE』を経て、ダブルアンコールの小沢健二との『今夜はブギーバック』が訪れる。曲が始まる瞬間、自分を含めた大勢の人が「ああ…!」と凄い気持ちになっていることを、その大勢の人たちがわかっている瞬間、ああいう瞬間はやっぱり普通にはそうそうないのだろうと思う。


・音楽は始まって、すぐに終わる。ライブも終了する。その時間と並行してオンライン上のTLはその、文字通りの「祭」で埋め尽くされるような今。自分も含めて誰もが誰か、その「事件」の当事者であることをラインに流す。しかし個人的には事件は事件として、それよりもむしろ『アーバン文法』や『彼方からの手紙』のメッセージについて、また『後者』という存在の意味を今一度考えた。勢い余って購入した冊子『余談』の終わりの方の宮沢章夫との対談のタイトル『この「美しい世の中」を我々の「悪ふざけ」でいかに脱臼させるかが大切です」という言葉の重さについても考える。20年前に笑いながら聴いていた「面白かったもの」は、それから20年経って、同じように、また少し違った意味で「面白いもの」であり続けているということがわかった。