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  映像研究

あまりにも過ぎ去った拡散する備忘録と週明けの不思議

 
・先週末は定例業務が定例なりに大忙しで何事も考えられず、何事の展示も見に行けず、何事の集まりにも参加できない備忘録。


・ここに書き記すことではどうにもこうにも関係することが出来ないですけれども「高尾山にトンネルが通る問題」が今まさに気になって仕方がない。それはだって自分にとっては「すぐそばのどこか」で起っている。そしてこのようなまさに今起っている出来事を前にして「うーん、色々な人がいて色々な考え方があり…」とかっていうのはあまりにも間違ったポスト・モダンの解釈であり体現だとか思う今日この頃(話は逸れるけれども、最近読んだ某対談本で某著名な現代思想のトップ・ランナーが「ポスト・モダンっていうのはロジックとして現状肯定しかできない」と言っていて/書いていて、「うわ、そうじゃん。しかしこの人、ほんとのことしか言わないなー」と思ってびっくりしたけれども。そうなのか?きっとそうなのだろう。)。しかしながら確かにまともに考えれば考えるほど、色々なことが馬鹿馬鹿しくなるようで、そして何よりも無力感があり、かといってそういったことに無関心でいられないならば、一体どうするべきなのだろう?


・そして具体的な高尾山の問題のような場合に、「積極的にトンネルを通すことに賛成である(必要としている)」というわけでもないけれども、「積極的にトンネルを通すことに反対している人に反対する人」というのは、一体何を考えているのだろうかと不思議に思う。あるいはまた全然違った問題を例に挙げるならば「現行の総理大臣を物凄く積極的に支持しているわけではないけれども、その総理大臣に対して異議申し立てとも考えられるような行動を起こす人に対して異議を唱える人」もいて、自分がそういった発言を目にするのは大抵オンライン上であったりするのだけれども、そういった言葉がどこからやってくるのか、そのことがずっと不思議だ。あるいは言い換えるならば、そのような人たち(と言って抽象化することには危険が伴いますけれども)は、なぜ「あきらめない人」を見ると怒りが込み上げてくるのだろうということが不思議だ。そしてまた、そのような怒り(やら皮肉やら)がものすごーく薄められて、でも確実に染み付いているテレヴィジョンや週刊誌や…そういったものをなぜ多くの人が見続けるのだろうかということもとても不思議だ。



・そういえば閑話休題で先週末の備忘録。今年の流行語大賞が発表されるようなこのシーズンにふらっと実家に立ち寄ったおりに超久々にテレヴィジョンを鑑賞したところ、自分にとっては全く知らない「家電芸人」という言葉/カテゴリーが存在することを知って震える。テレヴィジョンに出ている人が「芸として(それを芸とするかはさておき)」テレヴィジョン的な家電を広告するってそれどうなんだよ、まんま『トゥルーマン・ショー』じゃないかよ、むしろ「芸」ならそれよりタチ悪いじゃんよ、怖ぇーよ、もう無理だよ、だから嫌だって言ったじゃん(?)よ、とか何とか思うところはあるけれども、それを前にすると普通に笑っていたりするのがテレヴィジョンの大変恐ろしいところですね(誇大広告)。


・気がつけばテレヴィジョンを自宅に置かなくなってちょうど3年。当初は「なんでテレビ買わないの?」とかっていう質問に「いやーお金なくてさ」とか「いやー部屋が狭くってさ」とか答えていたものの、そのうちに「いやー本読まなくなるしさ」とか「いやー怠けるからさ」になり、今や「テレビって面白いの?」とか「逆になんでテレビ見るの?」といった22世紀的なクエステョン返しも手慣れてきたものです。実際のところテレヴィジョンを部屋に置かない理由としては「ハイパーメディアクリエイターの『情報ダイエット』に触発されて」(やや本当)とか「小沢健二の『うさぎ!』を読んで「電子機器に使われる金属が大変な環境で製造されている」ことを知り少し考えさせられたから」(少しだけ本当)とか、色々あるのだけれども、正直一番本当なのは、2002年くらいに宇多田ヒカルの『光』という曲を聴いて『テレビ消して/私のことだけを/見ていてよ』という歌詞を聞いて「そうか、大事なことを話すようなときにはテレビは厄介なものなのかもしれない」「そもそもポップ・ミュージックの歌詞で、テレビ消してって言って許されるんだ』『っていうか、テレビを見ない、っていう選択肢がありえるんだ」というようなことを、何故か那覇から羽田の飛行機の中でぼやっと思った結果「いつか自分が一人暮らしをするときがきたら、その部屋にはテレビを置かないでみよう」と考えたことが未だに影響しているのではないかと思っています。ビバ、宇多田ヒカル



・そして再び流行語の話。最近気になって仕方がないのは主にファッション的な雑誌で使われる『パトロール』という言葉で、この半年くらいファッション的な雑誌をあまり熱心に読んでいなかった自分としては、この言葉の使用法っていつからなのかわからないのだけれども、そのセンスには脱帽&脱力(呆れ)です。「おしゃれパトロール」ってそれはどうなのだろうかと思いつつも、見るたび(思い出すたびに)パブリックな場所でも笑ってしまうので困ります。また同様に数年前自分にとって微妙な笑いの何かを激しく刺激した言葉に、主にオンライン上で使われていた(と思うのだけれども詳しくは分からない)『タイーホ(=逮捕)』というものがあり、これなどは関係のない文脈であればあるほど笑えるので大変だ。それにしても気づけば全くの偶然にもどちらも「国家警察」のお仕事に関わる言葉であったものだから、そうか「笑いは『緊張と緩和』によって生まれるのだな」というようなことを考えた、というのはかなり嘘です。「『おしゃれパトロール』の結果として『タイーホ』される」風景は、笑いと呑気のカオスを通り過ぎて、少しだけ恐ろしい。