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  映像研究

フェスティヴァルは、いろいろな場所で同時に起こる出来事の全体

 
・7月だ。すごい。2008年の7月なんていう時間がやってくるなんてまったく予想もしていなかった未来。しかし7月1日ならば富士山だって山開き。そして半ズボンだって解禁。やっぱり生ビールだってプラス2杯。あるいは「せっかくだから」を理由に次から次へと電話で夜の宴に呼び出すことだってたぶん可(しかしほどほどにしよう。みんな大人だし。)。



・昨日6月30日(月)は正午すぎから御茶の水へ。御茶の水に降り立ったならば中央大学駿河台記念館へ。それは下記のようなパネル・ディスカッションを聴くため、またそれらを聴きつつ、ノートをとりつつ、何らかの事柄を考えるためだったのです。そしてこれらは『G8対抗国際フォーラム』というフォーラムの一環であるのですが、ちなみに自分としては「G8」というものに対して、この期間いろいろと調べつつ考えていたのだけれど、結局、それに「対抗する」べきであるのか、あるいはそうではないのか、ということに関しては、誠に残念ながら現状では、よく「わからない」。


・しかしながら、こういった機会に(一般的には)極端だと思われるであろう考え方に耳を傾ける、そのことから考え始められる事柄もあるのだと思う。あるいは、そういうきっかけからでしか考え始められない事柄もあるのだと思う。「(一般的には)極端だと思われるであろう考え方に耳を傾ける」こと。しかし同時に「(一般的には)さして極端だと思われない考え方にも耳を傾ける」こと。要するに自分はいろいろな人の言うことをいろいろに聴きたいということ。

『自律メディアは増殖する!』日時:6月30日(月)13:00〜15:00

パネラー:ジム・フレミング(Autonomedia)/成田圭祐 (Irregular Rhythm Asylum)/佐藤由美子(トランジスター・プレス)/加藤賢一(気流舎)/司会:酒井隆史大阪府立大学

『戦術の多様性をめぐって』日時:6月30日(月)15:00〜17:00

パネラー:デヴィッド・ソルニット(アーティスト)/マリーナ・シトリン(サンフランシスコ・ニューカレッジ)/リサ・フィシアン(戦術家) 他/司会:高祖岩三郎(Autonomedia、VOL編集委員


・しかし現地に着いてしまったのならば、もう少しフェスティヴァル的な様相に心なしかステップも軽やかだ。13時から、15時から、それぞれいくつかのパネル・ディスカッション(『パブリックかコモンか?ーサミット体制と明日の条件なき大学』『「ゾンビの国」で考える連帯の条件』『プレカリティは想像する』『反資本主義のための資本主義論』といったラインナップ)が他の教室でも、まったく同時刻に行われていたものだから、「どうするどうする〜『ゾンビ』にする?『メディア』にする〜?」とか「この『戦術家』って肩書きの人ヤバそうじゃない?」といった具合に、本来のミー・ハーな動機を思い出したのであって、誰がどれだけ踊らせてくれるのかを基準にした、いわゆるひとつの(行ったことないから知らないけど)フジ・ロックフェスティヴァルのなんちゃらステージ的な出来事になっている、というのはしかし、極めて主観的かつ個人的な感想だと思われます。

メイン・フォーラム『グローバリゼーションと対抗理論の可能性』
日時:2008年6月30日(月)18:30〜20:30
場所:明治大学リバティホール(リバティタワー1階)
司会:鵜飼哲一橋大学、フランス文学・思想)
提題:足立眞理子お茶の水女子大学、経済学)/ジョン・ホロウェイ(プエブラ自治大学、国家理論)
応答者:マイケル・ハートデューク大学、政治哲学)/岩崎稔東京外国語大学、政治思想)


・18時半からは明治大学の「リバティー・タワー」(いつも横歩いてたけど初めて入りました/しかし「リバティー」と「タワー」って何か矛盾してないか?)に場所を移して、メイン・フォーラムで大トリの外タレとしての「マイケル・ハート」だって見に行く。そしてそのメイン・フォーラム自体は極めて真面目な「学会の発表」的なものであったから、「なんか物足りないなぁ」と思ってしまったのだけど、よく考えてみれば一体自分は何を期待していたのだろう。


・海外からのパネラー、トーカー、ゲスト、何でも良いのだけれど、そういった方のお話をおうかがいする場合、どうしても共有する前提を摺り合わせるところから始まらざるを得ないのだから、上手くいったとしてもプロフィールの紹介くらいにしかならない、というのはどうしようもないことで、それ以上の何かを求めるのならばそれこそ打ち上げに潜入して「SAKE」でも飲みつつ…とかそういうことになるのだろうけれど、それはそれでコネクションがないならばひと苦労だ。


・しかし考えてみれば、かといって、いつでもどこでも誰にでも「全体のこと」を求めるというのも、それはいかにも消費者的な発想で、何ともよろしくないことなのだとも思うし、そもそもこれは「ロック・フェスティヴァル」ではない。あらゆる場所で行われるプレゼンテーションは当然、あらゆる活動の「部分」なのであって、そうであるならば、部分であることに物足りなさを感じている暇があったらもう少し考えられることがあるはずだと思う。



・終了後会場に来ていた同僚と、打ち合わせを兼ねて会食。しかし打ち合わせはまったくせずに、「条件なき大学」の現状と可能性について、己の経験をもとに話し合うも、「クリエイティヴ」な大学というものは、今や「条件なき大学」の対極にある、まったく不条理な「チキンレース・スタジアム」なのではないか、という認識についての話。そして超・具体的な明日の、居酒屋・フェスティヴァルと、夏の終りの恒例の、アーヴァン・キャンプ・フェスティヴァル、更にはそれらのフェスティヴァルに通底するマインドを常態化させるための「空間づくり」と「戦術」について、ほとんど悪い夢を見ているような状況について、それを良い夢として誤読するために、相談をする。