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  映像研究

スキー・ウェア

 
・業務が一段落したところで水曜日。黄色い電車を乗り継いで実家に赴き「スキーのウェア」と「結婚式に着るスーツ用の靴」という、まったく別の種類のハレの装いを取りに戻ったならば、しかし自分の記憶にある「スキーのウェア」なんていうものはもうすっかりなくなっていた。そんな中そもそも「スキーのウェア」とは一体なんなのか、どのような基準を持ってある衣料品を「スキー・ウェア」と名指すのか、という根源的な疑問、そしてあるいは今回自分が行こうとしている「バック・カントリー・スキー」というものは本当に「スキー」なのか、むしろそれは「登山」ではないのか、というようなことについて考えながらも、この場合「雪でも大丈夫な衣料品」と「スキーに特化したスポーツウェア」との関係がよくわからないのです。


・このまま考え続けるとどんどんわけがわからなくなって、最終的に謎の雨具で滑らなくてはならなくなりそうだったので、気持ちを切り替えるべく地元の友達二人(かたやフリーランス/かたやたまたま休みだった/便利だなぁ/お疲れさまです)を集合させて「西東京国民の新宿伊勢丹」こと「ラ・フェット多摩」へ。そこにさえ行けば、スキーのウェア的なものが手に入り、あるいはまたスーツ用のシャツ及びネクタイ的なものでさえも安く良質な品があるのではないかと思った。結局色々見た結果、僕らのバリュー・アウトドア・ブランド「モンベル」にてゴアテックス製の「ドリューパンツ」というシンプルなデザインのものをアウトレット的なお値打ち価格で購入する。しかもこれならば例えば雪山登山(それをするのか?)だとかの時でも使えると思ったのだった。(それ以外のものは普段着でも良いのではないかと考えた)



・2008年に生きる自分が「ラ・フェット多摩」で「雪でも大丈夫な衣料品」を「スキーのウェア」として使うために適正と思われる価格で購入する、ということについて考える。あるいはそれとは違った時代、例えば20年前の1988年に小学生として生きていた自分は、毎年寒くなる頃には「神田の神保町」に父親と出かけて「アルペン」だか「ヴィクトリア」だかをまわり、「蛍光であれば蛍光であるほど良きものである」であるという基準の元に、ウェアを、帽子を、ゴーグルあるいはサングラスを、ネック・ウォーマーを、グローブを、ソックスやらタイツやらを、ついでだからリフト券を入れる腕につけるやつをも、購入してもらっていた。しかもこれは「スキーのウェア」なのだから、「ウェア」だけではどうしようもない。背が伸びたならば「板」を、足が大きくなったならば「靴」を、絶えず投入し続けなければ即「遭難」するのであって、今考えてみるとそれはなんてお金がかかる遊びなのだろうかとも思う。


・そしてそういう中で広い意味(?)での「中流」としてカテゴライズされるような自分の家族やその周辺の人たちが、そのようにして「スキーのウェア」を買い求めて、毎年3〜4回ほど雪山に行く(そのうちの1回は大抵北海道だった)という状況こそが、他のどんな社会的な事象よりも自分が本当に実体験として知っている「バブル」なのではないかと考えられたりもするならば、だから自分にとっての「バブル」を象徴する都市の風景は原宿でも銀座でももちろん芝浦でもなく、年末に特別な意味を持った「神田・神保町」なのだという記憶。


・しかしそのように考えるにつけて、やっぱり2008年には「スキーのウェア」は「ラ・フェット多摩」に売っているものなのだと思う。なぜならそれは「雪でも大丈夫な衣料品」であることにおいて、より自由な競争にさらされているからだ。その「自由」を求める精神は、時にDIY的なマインドとも相性がよく、日本中のアウトレットで、あるいは世界中のヤフーオークションで「別に蛍光色でなくても良い」「毎年買い替える必要もない」「可能ならば男女兼用」という新しい基準の元に、ごく限られた人たちがそれを購入するだろう。その「スキー・ウェア」の変化がなにを示すのかわからないけれども、「思い出してなんてあげない」のは強がりで本当は色々なことを思い出すということは20年経ってわかったけれども、とにもかくにも大人である自分は自分の収入で10年ぶりにスキーに行く。そしてそれが可能な人は全員行くべきだと思う。しかしまたそれは「バック・カントリー・スキー」という名前で呼ばれた、別の種類のスポーツらしいのです。とりあえず「滑るのではなく歩く」のだ。それが「エコ・ツーリズム」とかいうカテゴリーとどういう関係にあるかは、また別のはなしだ。