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  映像研究

夜の日記

・201909092350。台風一過で熱帯夜が戻ってくる。去年と今年は家でエアコンをつけることを解禁してしまった。それでも体調のため、電気料金のため、そして何かのため、あまりそれが普通になってはいけないと思う。

 

・木曜日から週末を挟んで月曜日まで業務の新学期立ち上げで慌ただしく過ぎる。少し自分の勉強・研究から離れる。これも夏の業務の余波なのか。しかしこれから本格的に作業に入らなくてはいけない。自分に向かって唱える。

 

・サブで走らせると考えていた清野賀子についてのリサーチが面白くなってきてしまったという事情もある。2000年代の雑誌、ハイファッション、広告、リラックス、スウィッチ、それらの雑誌に掲載された清野賀子の写真はどれも面白い。インタビューで答えていた「『ふと雑誌を開いてみたら、とてつもなくいい写真が載ってた』みたいなことが私は好きだから」という言葉が、まったくその通りに実践されている。一見すると見逃してしまうようないい写真。『至るところで 心を集めよ 立っていよ』の「至るところ」は、ふと開いた雑誌のことであるかもしれないと思った。その試みは佐藤真の(構想のみで中断された?)『トウキョウ・スケッチ』と重なるところもある。と思い立って書いてみて、その二人が近い時期に自ら命を絶ったと言われていることをどう考えればよいだろうか。簡単には考えられない。

 

・昨日は久しぶりの友人二人と武蔵小金井の焼き鳥屋で飲食。店の大きなテレビで迫る台風を感じつつ、近況を交換。早々にあいちトリエンナーレに行ってきた友人の話を聴きながら、作品と呼ばれる実践における制作者のプライベートあるいはパブリックな部分について意見交換。社会的なメッセージを発することから撤退しているように思えることをそのまま「生活保守」と批判こともできない。というか他者が簡単に批判できることなど何もないのだと強く思う。作品の、実践の、活動の、発言の底にどのような欲望が見えるか。そういうことを話したかもしれない。久しぶりの友人との久しぶりの飲食だったから、アルコールを摂取しすぎてしまった。雨の中をタクシーで帰宅。

 

・かつて(といっても10年くらい前)秋とは焚き火の季節だった。昨日来られなかった友人にどんなメッセージを投げられるだろうかと考えていて、思い出したのは多摩川沿いで焚き火をしたことだった。「また、焚き火でもしましょう」と送る。かつての偶然のアクティヴィティが自分の歴史に確かに刻まれていることがある。集合写真で覚えている。何かを綿密に準備して行う。そして集合写真を撮る。それは戯曲を書くこと上演すること、そしてアーカイブすることに似ているかもしれない。

日記

・201909060852。家で。秋になると必ず聴く音楽がありそれは秋が秋らしいことに気づいた頃によく聴いていた音楽でもある。かつて高尾に引っ越したことで気候の変化、例えば秋になると朝晩が少し寒くなり湿度が下がっていたりすることに気がついた。それを秋と呼ぶことを知った。それは2008年とか2009年のことだったはずで、その頃は今よりも全然やることがなかった。やることがないから春には山菜を探しに散歩したり秋には詳しい人に連れて行ってもらいキノコ狩りをしたり季節の変化を見るために写真や映像を撮ったりしていた。日が暮れるとはどういう現象なのか、夕立とはどのような出来事なのか、真夏の昼間に影はどのように現れているのか、木漏れ日はどのように動くのか、小川の流れはどのような速度か。そういう事物や事象を見るためにカメラは役立った。今でも目で見たことと、映像で見たこと、空気の感じ、色々なことを覚えている。それは自分のためだけの、日記のような写真や映像だった。日記だから開けば思い出せる。

 

・別のことも考える。神奈川県立近代美術館で一之瀬ちひろさんの展示を見てから、写真と風景についてまた考え始めた。映像に写された風景のイメージの中に写した人が「いる」と考えることができるのだろうか。写真は、カメラは、シャッターを押せば誰でも同じイメージが獲得できるともよく言われるが、しかし、そのことはそのこととして(事実でもある)、やはり「違う」ということも考える。私が見たものは、この写真になる、と言えるだろうか。見ることになるべく忠実なイメージであろうとすること?という言い方はあり得るだろうか。あり得るのだとしたならば、ではその行為の始まりにある「見ること」とは何か。風景とは見ることの別の言葉の表現なのか。風景=見ることというある意味では閉じた思考に対して、しかし外界は開けてもいる。移り変わりもする。そして気持ちも動く。外界=精神ではないが、しかしそこに「通路」のようなものもあるということだろうか。一之瀬さんの展示では、さらにその外界に漂う空気=人間の営みの中で意味に満たないものを見ようとするという試みも含まれていたのではなかったか。写真というイメージを通じて、政治未満の、政治以前の、生活の中の人間の様々な存在の仕方を見ようとすることを、面白い試みだと思った。

 

・そのことから、やはり、再び、清野賀子という人の写真についても考え続けている。90年代から2000年代にかけての清野賀子の雑誌の仕事の中で、今は人物を写した写真やマネキンを写した写真が気になる。それは清野賀子の写真が「風景と呼ばれる対象」を写していたとしても、それらの写真が精神的なものと関わる試みであると捉える上での足がかり/論拠となるかもしれないからで、しかし結論は急がないようにしようと思う。タイトルやテキストやインタビュー、あるいは他者の批評の中には、既に確かな、ある意味で決定的な言葉も出ているのだけれど、それらの言葉と写真とを単純に接続するのではなく、何より清野賀子の写真を見ることから、そして清野賀子の写真をなぞってみることから、つまり自分もまた写真を撮ってみることから、何か考えられることもあるように思う。

 

・全然別のことも同時に考えている。日記と思って開き直って文章を書くようになると、他人の日記を読むことも楽しくなってくることについて。他人の日記をこんなにも読むことができるインターネット素晴らしいなと、20年越しくらいで思ったりした。最近印象に残ったのは辻仁成という人の日記で、90年代にいくつかの小説を読んでみたこと以外、その後全然辻仁成という人について(二つの読み方があり、仕事よって使い分けているということなども)知らなかったのだけれども、今読める日記はとても面白い。それは自分がいまフランス語を学習しているから、フランスでの生活が垣間見えるからという理由もあるのだけれども、それにも増して父親と息子の二人の生活に惹かれるという理由もある。その日記を読むことから、かつての自分の生活と今の自分の生活について考えることができた。そして多くの(すべての?)「生活すること」が、不確かさと安心のあいだを絶えず揺れ動いているのだということが、文章を読むことから感じられる。日記であるからには思考だけでなく、書ける範囲で具体的な出来事を書いておくことも大切なのだと思う。

 

 

 

夏から秋への小旅行

・201909041050。昨日は珍しく家族と休日が合う一日だったから葉山、神奈川県立近代美術館の柚木沙弥郎展へ。テキスタイルも格好良かったし鳥獣戯画も力強く心に残った。宮沢賢治雨ニモマケズの絵本の原画も良かった。絵を見ておそらく何度も読んだことがあるはずの言葉を目で追いながら「そういうものに私はなりたい」と思った。「そういうものに私はなりたい」と言ってみて、しかし「そういうものに私はなりたい」と思うことは、この世界で、この国で、この社会で、許されているのだろうかと考える。あるいは、今なおこの言葉が人に何かを考えさせる力があるとして、その言葉を掲げることは、この先いつまで許されるのだろうかと考えたりもする。

 

・今そういうことを考えたのは企画展「みえるもののむこう」で一之瀬ちひろさんという人の作品を見たことに依るかもしれない。写真とテキストの作品からは感じることが多く、その場でぐるぐる歩きながら、何かここには自分が考えたい/考えようとしている/考えたかったことが展示されていると思った。写真の問題、場所の問題、そして制度の問題、それらが折り重なりながら、確かな肯定のようなものがあるとも感じるのは、それが写真/カメラの力そのものを示すような仕事であるからだろうか。ミュージアムショップで行き手にした写真集『ON THE HORIZON』と『KITSILANO』『日常と憲法』を購入してみた。引き続き考えることができそうだと思う。

 

・そのまま砂浜に出てみれば海の家がたたまれている夏の終わりらしい光景。数人が泳いだり波打ち際で遊んだりしている。犬の散歩の人が通る。そして自分も写真を撮らなくてはと思い三脚を立てて久しぶりにGW690で撮影する。家族と二人で並んでタイマーを仕掛けてポーズを取る。写真が写されるまでの時間を感じる。夕方の光は強すぎず弱すぎずほどほどにある。その光の様子を見ながら何枚か撮る。この夏は全然写真を撮ることができなかった。仕事をしている時でも、文章を読んでいる時でも、勉強をしている時でも、写真を撮ることは難しい。しかしなるべく撮ろうと最近また考えている。日記に添えるための写真はipadで。クリアに写るそのイメージも決して悪いわけではない。

 

・バスに乗り電車に乗り換えて大船まで。病院で受けた検査の結果も問題なかったから、そのことを口実にして久しぶりの外食らしい外食。熊本の球磨焼酎を揃えた店で色々つまみつつ飲み、二軒目は前回も立ち寄ったヒグラシ文庫へ。お店の感じは若々しいが年配の人も多く良い感じ。電車を乗り継ぎ帰宅。これで今年の夏は完全に終わり。

 

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9月は秋

・201909021230。11時くらいに中央図書館にin。昨日の特番的な業務の後にチームで打ち上げて「では軽く」と言いつつも絶対軽くでは終わらないことをわかっているような席だったからつい楽しくなって食べたり飲んだり話したりしたことにより夜の記憶があまりなく朝も出遅れた。しかしそれなりの準備をして現場でも気をつけながら進めてその後振り返りを行うような仕事ができたことは普通に楽しい。一緒に仕事をしている人に対して興味と敬意を持つことができることも嬉しい。色々と困ることはありつつも会社的な組織の中で労働をしている限りにおいてこのような時間が訪れることはラッキーだと思う。

 

・それで業務においては「カメラで撮影することについてどのように考えられるか」「カメラで撮影することについての思考を深めて制作/実践を活性化するためにどういうきっかけづくりがあり得るか」という課題が目下ある。学生と呼ばれる人たちに対して、何を、どのように、投げることができるか。さしあたり本でもと思って濱口竜介『カメラの前で演じること』と佐藤真『日常と不在を見つめて』を読み返してみている。ヒントも手がかりもあるだろうが、それをどのように伝えられるのだろうか。やはりカメラのことを考えるならば映像など見てみるべきだろうか。そういえば『ハッピーアワー』のブルーレイは購入したものの一度も見ていない。そもそもブルーレイのプレーヤーもモニタも持っていないしプロジェクターも職場に持って行ってしまった。そんなことで「映像研究」などと言って良いのかと思うから、時々はテレビか何かを購入することを考えるが結局いつも立ち消えになってしまう。カメラについて、だった。

 

宿題

・201908312359。帰宅していま。夏の終わりの最後の瞬間。終わらない宿題と格闘する時間。学生の頃ならば名残を惜しむように手持ち花火とかしていた。今日は学生と呼ばれている人の展示を見たり舞台を見たり少し業務をしたり少しフランス語学習をしていたりしていたらあっという間に終わった。暑い一日。夜になっても。予感させる秋を思う時に思い出す曲がいくつかあるがフィッシュマンズの曲は大学の芸術祭の風景とともにある。まだ暑い夜に冷たい風を想像しながら。