&

  映像研究

密度

・後から書いておく記録。学期で組み立てられた年間の業務は、学期末によって半ば強制的に区切られる。その終わりの一日。8:00に最寄駅のエクセルシオールでモーニング兼30分だけ自分の作業。明日からの作業の入り口を掴んでおくために。

 

・8:30から18:00までが光速で消えた。見た物や聞いた話に応答すべく適う言葉を探し投げてみる。そういう仕事だった。言葉について、少し精度が出なかったと思い反省しながらも、ひとりの言葉の精度の問題とは別に、そのような言葉が掛け合わされることによって、複数人が共有している場に力が生まれることの方が重要だということを、あらためて考えさせられた。というか、思い返しながらいまそのことを考える。それについては、かなり良かった。そして、もっと良くできる。

 

・あらためて「対面」ということの情報の密度を思う。基本的にずっともう一年以上「気をつけながらの対面あるいは対面オンライン併用」でやってきたが、人が集まり、その場所に人が制作したものが集められると、磁力というか、緊張感というか、何かが醸し出されて、何かが発生する。それを持続させたい、と思いながら仕事している。神輿を担ぐようにあるいはマッチを擦り続けるように言葉を話し続けているのか。でも沈黙や言葉を待つ時間も必要。その緩急がむしろ力になっているのかも知れなかった。マスクの上にあるふたつの目も情報を伝える。

 

・そういう磁力の場から流れ出て、チーム同僚で久しぶりの飲食(気をつけながら)。4人で席を囲んだのは今年の2月以来だったかもしれない。そういう場で交わされる情報の膨大さ。固有名詞を教わり、名詞ではない不定形な生の断片が流れる。そのテーブル席も力の場だった。その熱を心地よく感じながらおしゃべりをしていたら4時間くらいが消える。

 

・帰宅するとオンラインでの会合が待っていた。プレ忘年会の様相。日本の5地点がデータとして接続され画面上で並ぶ。近況報告をしあう。偶然にも(?)最近オンラインとリアルで立て続けに講義をした友人がその特殊な状況での言葉のやり取りの難しさについて話をしてくれたから、それを聞きつつ考えを話すなど。友人たちの話す言葉のトーンに慣れ親しみを感じているから基本的には緩む。緩みつつ、しかしここにも力は集まっている(でもどこに?)。後半残った4人は思えば大学の同級生で、みな「映像」を専攻していたのだが、それが今もこうして「映像」について考え話していることの不思議。

 

・私たちは、おのおの考えを変化させながら、きっと身体を構成する物質は殆どが入れ替わりながら、なおかつひとりの人として在り続けているのだけれども、その面白さと、映像への興味は関係している。その「関係」は時に何かの呪いのようでもあると感じながら。25:30に画面をタップして終了。