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  映像研究

切ること

・201904181244。業務に向かう前の合間に書く。昨日2019年4月17日は仕切り直しの一日だった。仕切り直すこと。区切りを入れること。切断。切れるはずのない時間の流れを任意に「切断する」と宣言してみたならば、少し意識が変わる。少しだけ。意識は変えようとしてもほとんど変わらない。惰性がある。それでも宣言をする。宣言をすることには意味がある。

 

・ふと気づいてmacbookのメールで受信メールを見ていた。日記とともにしかし日記以上にメールのテキストは日々を結果的に記録している。自分が人に向けた文章の感じに恥ずかしくなるが、それはどういうことなのか。ちょうど10年前から現在までのテキスト。例えば2009年に自分が友人や知人に送った言葉は、確かに自分の言葉だが、何か違和感がある。呑気。楽観。無邪気。色々に形容してみてそれは自分の他者との関係性の感じやおそらく発している(いた)雰囲気と響く。切断するまでもなく遠い。

 

・そして昨日は「書くこと」について考えた。今は大学に所属しながら「書くこと」の練習だか修行だかをずっと続けている。そもそも大学と呼ばれるような場所で研究と呼ばれるようなことを自分がしていること自体が冗談のようだ、とはもう言えない程度には進んでしまった。全然違う言葉を使いながら本来は切断できない思考を続けている。準備運動のような日記。

 

・「年齢とともに書く内容も書き方も変わっていく」のは当然のことであるだろう。では驚くほどに呑気、楽観、無邪気と読める自分の言葉はなんだったのか。言葉遣いが変わることはなんなのか。それは自分がコントロールしようとしてもできないことのように思える。「読むこと」で自分を律する?ことはできるにせよ。意識的に若い言葉を使ってみて何かを装うこともある。言葉を扱うという意味では発音やリズムも関係がある。