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  映像研究

「じたばた」

 
・口癖があるとしたら「最近どう?」というくらいで、それも略したならば「どう?」と聞いている。「どうですか?」と。「どんな感じ?」と。聞く。聞かれることもある。聞かれるかもしれない。もしも聞かれたら。「じたばたしている」と。他の形容詞を忘れるくらいに的確に「じたばた」している。「もんどりうっている」は少し違う。「右往左往」は少し似ている。だけれどもその呑気さも含めて「じたばた」がしっくりくる。じたばたが許される幸福。絶望的に世相は最悪だけれどもトレンドは更新されてそれを見ている。トレンドはいつでも新しく完全に文字どおり「目が楽しい」。しかし一方では、たいていの言葉にぴんとこなくなった。たいていの話題。たいていの世間話。たいていのトピックに「ぽかん」としている。話が合わない。マネージメントのことを考えられない。考えている人のことは本当に有難いと思うがそれを出来る人がいるならば自分はそれをしなくとも良いのではないか。他の人でもできることならば他の人にやってもらいたいという不遜な態度。申し訳ないと思いながらもしかし時間がない。意識のある時間には可能な限り文字を読んで文字を書きたい。そして時々計画的に意識を失いたい。という何の話だったかこれは。


・ようやく写真のことについて、何を考えるべきか、何を中心として考えをまとめるか、自分の覚悟のようなものが決まって、しかし、どうしても、トレンディーなことも、賞味期限の長いことも、書けそうにはない。何かについて書くならば、自分の過剰な拘りのようなことを無視することはできない。自分の場合それは、写真の「ある質」のようなもの。それをもう一度(あるいはこの後何度でも)確認するために、家の本棚にある、高橋恭司、佐内正史、清野賀子、HIROMIXの写真集を見返してみた(見た)。あるいはそこにホンマタカシ大森克己という人を加えてみるならば、それぞれ使っているカメラは違う。フィルムのサイズが違うから解像度は違う。しかし、いずれの写真もそれぞれの解像度にチューニングすると、その光景を前にした自分が想像できるように思う、というこれは90年代の光景に対するノスタルジーに過ぎないのか、どうなのか。しかし、やはり、フィルムであることに、つまりフィルムとデジタルの違いに、何かがあるのではないか、ということをずっと考えている。それはまるで勝ち目がないような、誰も説得することができないような、そういうことを提示しようとしているのかもしれない。中平卓馬の、ボードリヤールの、その他の写真を見ながら、女性がボーカルの、踊りたくなるような、ミュージックビデオは移動をし続けるJ-POPを聴きながら、考えていた。