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  映像研究

毎日書く

 
・ことは難しい。コーヒーを飲みながら。コーヒーを飲む時間には書く。指先でつるつるとテキストを書くことができない。両手を使ってキーボードを叩く。いつか「わざわざキーボードを叩いて書かれた文章」は有り難く感じられるほどに脳から直接言葉が引き出される。その前には何もない空間に指をかざしたら文字が入力されることになる。キーボードの重みや堅さ、あるいは温度。そうした感覚が贅沢品になる。あるいは嗜好品として扱われるかもしれない。ファッションや何事かに興味があってその興味でからだが破裂しそう捻れそうな高校生(大抵は女子)たちは「写ルンです」を手にして街を走り出す。「デジタルってきれいすぎるじゃないですか?」とか何とか言う。それはこの2016年の東京に辛うじて許された贅沢なのか。もちろんこの見立ては多分に90年代の記憶が重ね合わされたものであるとして。しかし何よりも「物質的であること」それ自体が贅沢であることは、いつも、既に、進行している。あらゆる感覚は電子と薬物によって、つまりテクノロジーによって置き換えられていくのだろう。いま自分が『24/7』を読んでいるからそのように考える、ということもあるけれども、しかしそれはあまりにも本当のことであるように思える。この違和感。この違和感を育てることが次の5年や10年を作る。いつでも、自分の違和感や痛みを手がかりにして思考を立ち上げるしかないじゃないか。それはとてもパーソナルな未来の話、あるいは緩い約束。


・生活の中にいまのそれとは全然違うリズム、コード、抑揚、グルーヴをと少し前に書いてみて、それは本当に音楽そのもののことかもしれなかった。音楽あるいは歌。歌うことをそして歌を聴くことを思い出して、それを生活の時間の中に少しでも埋め込むことができるならば、それで、まだ何とか大丈夫という感じがある。そして人の声はそれ自体が歌でもある。だから歌うように近況報告する/近況報告という歌を歌ってくれる友人の言葉を聴くことも、今の自分の生活とは全然違うリズム、コード、抑揚、グルーヴを与えてくれる。あっという間に過ぎ去る2016年11月の最後に。