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  映像研究

雑記

 
・日付が変わると同時に変わったばかりの今日に気がついた事柄を記しておく。テキストを打ち込んでは直す日々。3歩進んで2歩下がる的な。今日(火曜日)は幸福だった。丸一日論文を書くためだけに使うことができた。そんな幸福(幸運)はそうそうないのだと思う。時々ラジオを聞きながら、時々コーヒーを入れながら、資料を読んだり、テキストを打ち込んだりしていた。


・夕方にはタイムラインが「特定秘密保護法案」の話題で埋まる。今日はその衆議院での採決の日なのだった。直接知っている人も何人か国会前に行っているようで、Twitterでの発言から、あるいは写真からその状況を推測する。ややあって可決されてしまう。このことをどう考えたらよいのだろう。オリンピックが…とか、あるいは都知事の人が…とか、そういう脱力の仕方とはまた別の無力感を感じる。


・全く追いつかない、と思わずツイートしそうになって、しかしそれをやめた。全く追いつかないのは自分が今やっていることが現実の出来事を何か少しでも良い方向に…ということなのだけれども、それはやめた。自分はいまテキストを書いている。あと、たったひと月半なのだから、そのことをどうだと言う前にまずやる。just do itの企業のスニーカーはしばらく(5年くらい)履いていないけれども、それはともかく息を止めて、ただ目の前のことをやらなくてはいけないこともある。


・どうしても、ただ思うことは、本当に大切なことはソーシャル・ネットワーク・サーヴィスとは関係がない、ということだ。ひとつの私企業に自分の人生の重要な出来事に関わって欲しくない。見たり、見られたりしたくない。しかしこのことを、自分のためにとは言え、ネットワーク上のダイアリーに記している。


・美術史を辿るということは、現在から考えればあまりにもあからさまにばかばかしいと思えるようなことも、その時代には切実な動機からなされていたことを考えるということで、どのようなジャンルの事柄であっても「歴史を学ぶ」意味はきっとそこにしかない。過去の出来事を知ってばかばかしいと思うこと。その切実さを想像すること。そして今のこの状況や自分の振る舞いもいつか誰かにとってはばかばかしいことだと思われるかもしれないこと。さらにそれらをすべて想定した上で/想定したからこそ、自分自身の現在に、意識的かつ希望を持っていられるということ。


・久しぶりにはじめから終わりまで見たDOMMUNEトークでは主に岡田利規宮沢章夫が話していて、それは基本的には演劇についてのことであったのだけれども、同時にその表現を支えている(規定している)具体的な場所(東京であるとか)と時間(現代であるとか70年代であるとか)について話されていて、それがとても面白かった。そういえばこの間観劇したサンプル『永い遠足』について話されていたのも面白かった。


・色々と観に行きたいものや、単純に行きたい場所がある。しばらくはそれは叶わない。その時間に別のことをする。