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  映像研究

泣けるDORAMA、泣けるJ-POP、そしてイラストレーション。

 
・朝から『Q10』第6話を観賞して落涙&小さな嗚咽。人はそれを「号泣」と言ったりするようなのだが、インフレーションを起こした「号泣」よりもニュアンス的には落涙&小さな嗚咽。『戦争を知らない子供たち』につづいて堺正章『さらば恋人』なのだった。北山修なのだった。それを合唱するのだった。しかもそれを「学費が払えなくて退学してしまった同級生」の家の前で夜に合唱するのだった。それは異様な映像だ。あんなこと金八(小山内美江子)だってやらないよ。だから警察だってやってくる。そのようにしてドラマには「頼まれたわけでもないのに人が協力して誰かのために何かをやろうとすると警察がやってくる」というシーンがあるが、個人的にそれは大抵落涙&小さな嗚咽。そして校長先生は警察官に怒られて頭を下げたあとに、しょんぼりしている生徒たちを慰めるように言うのだった。「しょうがないよ、常識やぶらなきゃ伝わらないことだってあるんだから」と、まるで何でもないことのように。それでまたそれぞれの生活が始まる。そういうドラマ。



・オンラインでニュースを見ていると宇多田ヒカルという人の話題が出ていてとても興味深い。直接聴いていないラジオの内容をニュースの文章から勝手に理解したような気になるのもアレですけれども、しかし「自分の家賃を知らない」だとか「何もできないおばちゃん?になりたくなかった」とかの見出しだかが書かれていて、ああ、良いポップ・ミュージックを作っている人は、このように色々なことを考えているのだな、と思った。そこで極めて唐突にも自分が「00年代」というものを(早くも)回想したときに、ぱっと思い浮かべる、ぴったりくる言葉は「小泉純一郎」と「鬱」なのだけれども、そのような時期(「時代」という言葉も曖昧なので)に、そのような状況を的確に描写して、またそのような状況に対して、なにか「意見広告」しているように思われたポップ・ミュージックは個人的には、宇多田ヒカルという人とキリンジというグループだと思う。ワイド・ショーに小泉純一郎という人が取り上げられている傍らには、キリンジの「エイリアンズ」や「Drifter」という曲があり、また宇多田ヒカルの「keep Tryin'」や「BLUE」という曲がいつもあった。「鬱」や「BLUE」というフレーズがあった。そういう曲はポップ・ミュージックでありつつ、やっぱりあえて言うならば「祈り」のようなものなのだろうと、今になって強く思う。ちなみにそれはもちろん過去のことというわけでもない。



・そのような回想と物思いを引きずりながら夕方から外出して国立へ。このところ国立でMMのMTをすること多し。いよいよフェスティヴァルも週末に迫って、準備も佳境になってきております。本日は昨日考えていた「ファンシーでファンキーなしおり」を作るべく、知っている限り周りで一番面白い線のイラストレーションを描くことができる、かつ非専門家代表として山部@国立ガールのTMさんに「楽しそうな宴のイメージ」を具現化してもらう。カフェのテーブルにて談笑以上の歓談をしながら執筆?する作業は少し「非常識なかんじ」だったかもしれない。しかしそれはまだ「常識やぶらなきゃ伝わらないこと」というレベルではありません。数時間に渡って作業してその甲斐あって名作が描かれる。よかった。その後ちょっと当日の流れなどを確認して解散。22時帰宅。(何故か)即就寝。