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  映像研究

連日連夜、メッセージ。メッセージを交換しつづける。

 
・ルーティン的な意味での業務はないものの、気づけば日々、なんやかやとしている。「今、マインド的には休職中なんですよ」というニュアンス自己紹介/近況報告は徐々に洗練されつつあるものの、一方それが徹底されてくることによって、もしも連絡がつかなかったときに「なんだ、暇じゃないじゃん」と言われるのもなんかアレだし、あるいはまた「暇なんだったら、洞爺湖(サミット、に対して異議を唱えたりもする各種運動的なもの)に行ってくればいいじゃないか」と言われたりするのも、それはそれでアレだ。


・そんな日々に、荻窪駅前の某大型古書センターで見つけた、佐内正史の写真集『message』を、おりゃ!と気合いを入れて(基本的には普段某大型古書センターでは105円のもの以外購入しないので気合いが必要だ)買う。


・この写真集が出た当時は(確か)「うーん、プロヴォークのリバイバルも一段落して、今はドイツの現代写真が熱いらしい」とか何とか言ってたミーハー美大生的にはこの写真集のことがほとんど気にならなくて、むしろ「何だこれ、普通だ」とか「何だこれ、国立だ」とか「何だこれ、…(わからない)」とかいうリアクションだったものの、それから数年が経って、どういう巡り合わせか「PENTAX67」を持って、何を撮るでもなく自分が住んでいる家のまわりを撮影してみたときに、何となくふと思い出して「ああ、あれは何だか、とても面白い写真集だったのではなかろうか」と思い出したのが、この写真集だ(そしてしかし気づいたときには絶版)。


・そしてだから今ならば、その一枚一枚に、写真を撮る集中力を感じることができるような気がするし、そしてこの写真集のタイトルが『メッセージ』であることも、今ならば(何となく/勝手に/しかしそれは自由だ)わかるような気がする。それ以前の『生きている』も『わからない』も、もちろん良い写真、良い写真集だなと思うけれども、きっと多分もう少しそれとは違った「スナップっぽいもの」が見てみたいし、スナップっぽい、ということは「撮る人がその場所を歩いている」ことや「撮る人が他でもあり得たその風景を目の前にしている」ことや「他でもあり得るのだが撮る人はその風景を撮ってしまった」ことなどを感じさせて、それはつまり「不思議」ということをぼやっと考えさせる。


・あるいはまた、そういったものを見てみたいと思う自分は、自分でもそういった感覚で写真を撮りたいと思い、そして自分が撮った写真を「もっとよく見てみたい」と思うのならば、しかし一般的には、メッセージ、というとそれは自分ではなく他の人に向けたなんらかの表現である、というイメージもあるのだけれども、しかし一方、自分が見てみたいことから始まる、また別の「メッセージ」というものもありうる、というか、そういった「メッセージ」こそを面白いと思う、とかっていうようなことも考えたりしつつ、午後の喫茶店からデジタル・ヴィデオ・カメラの静止画モードでだって何かは撮れる。何かは映る。