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  映像研究

それでもファッションについて考えていると言えなくもないのではない

 
・季節がらなのか、どうにもこうにも、一も二もなく、矢も盾もたまらず、ファッションに関係しているものを購入したいと思って、この一ヶ月ほど何かのついでに色々なショップを覗いては(わざわざファッションを目的に出かけるほどでもないことが少し悲しい)色々なアイテムを手に取ったり取らなかったり。しかしながら、取り立てて何を購入するでもなく、またそのような予定もないというのは…己の審美眼的なもの?ハードルの高さ的なもの?財布の紐の緩くなさ的なもの?にまつわるプレゼン的なものとは関係がなく、何と言うか、大きな意味での流行に対して、このところ自分の興味が少しずれてきたように思うということからです。


・そしてそのような中では、とりあえず「裏表紙がアメリカン・アパレルの広告になっているような雑誌」が提案する、ファッション/スタイルは、何というか正直ちょっと大変そうだと思ってしまうのが今の自分だ。「どこまでスキニーなジーンズを履けるのか」「どれだけ蛍光のTシャツやスウェット・パーカを着られるのか」(ついでに「どれだけ悪趣味な四打ちで踊れるのか」も)というようなチキン・レースに参加することの根拠がよくわからなくなってきている今日この頃。そして、そのような気分こそがつまり、かなり長いこと続いた、この「80年代ブーム」が終わったということなのだ、ついでに「00年代的プチ・バブル」も一緒に終わったということなのだ、とかそういったことを、大手広告代理店とか社会学者とか、例えばそういったオピニオンのリーダーの方たちが言ってくださったりすると助かる(?)のになぁとかも、思わないこともない。



・それで、ところで、ファッションといえば、自分は同じものばかり着ている。「同じようなもの」ではなくて具体的に「同じもの」を着ている。そして完全に年齢的な理由からだと思うのだけど、ワード・ローヴには10年選手的アイテムがまったく珍しくなく、例えば人に「これ買ったの?でもまぁわりと最近だよ?」とか返答してみた「ビルケンシュトックのサンダル」が、考えてみれば今年でもう10年目じゃないか、とかいう事例があるならば、一体自分は何歳なのか?…ということが問題なのではもちろんなくて、そのような感覚が、おそらく今の、物と自分と貨幣との関係、を示しているのだということ。



・または、唐突に、かつて、小沢健二という人は雑誌『olive』の連載で「人が食べ物(料理)を言葉で表現すると、それは詩になる/あるいは「詩」とは、人が食べ物(料理)について言葉で表現したようなものである」というようなことを書いていたように記憶していて(しかしながらその記憶はとても曖昧だ/から言い回しも、内容すらも、かなり違うかもしれない/なりに、とてもよく覚えている印象的なくだりだったのです)、それに対して自分は当時「確かに。」と思ったのだけれども、そのようなことから今の自分が考えることは、同じことは、ファッション/スタイルやファッション・アイテムが持っている、かたちや色に還元できないような「雰囲気」にもあてはまるのではないかな、といったようなことです。



・例えば「そのシャツの丈、絶妙に良いですね」という感覚を4000字くらいの言葉にする。しかも何かを参照するのではなくて(それは「広告」だから)、そのイメージそのものを言葉や文章に置き換える。あるいは人が洋服をコーディネートして立っている姿を見て、おもむろに一句詠んでみるというのも面白いかもしれないと思う。もちろんやってみたら全然面白くないかもしれないですけれども。


・そのようなことを考えて、自分にとって「ファッション」あるいは「オシャレ」という言葉は「表層的」とか「移り変わるもの」といった意味はまったくなく、むしろ例えば「視覚的なものを、イメージを、信じるということ」「見ることからイメージを喚起し続けること」を表す言葉なのではないかと思ったのです。もちろんこれはまったくの個人的な言葉の用法なのですけれども。