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  映像研究

言葉について、でもない

 
淡麗グリーンラベル<生>を飲みつつ、菊地成孔「ユニバース」を聞きつつ、妹に誕生日おめでとうメールを打ちつつ、納豆をかき混ぜつつ、天気予報を見つつ、ほぼ半寝で平日の夜を過ごす。


・今日は新宿で仕事後、知人友人の展覧会を鑑賞。そして伊勢丹のセール(主に2F・コム・デ・ギャルソン)を冷やかして(主に冷やかされて)、その後紀伊国屋ホールでの『東京大学「ノイズ文化論」講義』のトークショーへ。前半は宮沢章夫×内野儀で東大の授業の経緯について述べられて、後半は宮沢章夫×土屋敏男第2日本テレビ)で「漂白されるテレビ」をテーマ?にフリースタイルなかんじでトーク。内容は、『4分33秒』で幕を開けつつ、『ノイズ文化論』の内容をなぞりつつ、素人の乱の『3人デモ』も紹介しつつ、『元気が出るテレビ』の話もしつつ、気がついたら終わってました。


・ルールの中にありつつも/マニュアルがあると知りつつも、そこから逃れようとする実践というものがありうるということ、について話されていたことからは色々と考えてみたいと思った。そのひとつの例として/完全にミッキーの格好でディズニーランドに行く(とどうなるか)というような話があった。とても良い例だと思う。そしてこの場合そういうことが書き言葉ではなく会話として聞けるということがまた意味のあることなのであって、そして『ニュータウン入口』は面白そうなので観に行こうと思う。