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  映像研究

風景

 
・201808301018。中央図書館にて。職場に置いていたDVDを持って帰ってきて佐藤真『SELF AND OTHERS』を久しぶりに鑑賞。これを映画館で見たことがないことが悔やまれる。当時なぜか見に行けなかったことを思い出す。ラストの牛腸茂雄の「もしもし」を真似していた友人。あれは2000年だったのか。当時は自分もいつもカメラを持ち歩いてほとんど止まることなく撮影をしていたのだった。あるいは撮影することを一度止めたのが2000年の秋だったか。それほど昔のことではない。古い記憶でもない。


・ちょうど4年前の夏に働いている教育機関で『SELF AND OTHERS』を上映したところ、学生から「こんなの映画じゃない」という分かり易く素直な反応を受けて、怒りながらも色々考えたことを思い出す。「あなたの考えている『映画』とは、じゃあなんなのですか?」と自分は応答したのかどうか、までは覚えていない。山葵を食べて「辛い」と言う者に対して「辛くない」ということはできない。「辛いけど美味しい」とも言うことができない。笑顔で頷いて待つしかない。10年くらい。人の味覚は少しずつ変化する。気がついたとき、少しずつ、変化している。だからできることは、色々なものを美味しそうに食べる様を見せる、ことでしかない。一緒に、互いに、美味しいねと言い合うことができれば、それはほとんど奇跡的な、幸運でしかない。誰も、育ても、育てられもしていない。生活と身体と時間が在る。


・風景の写真や映像を見る感覚は、どのようにして育てられていくのか。空き地の一本の木が在ることを写した映像を見続けることがどうしてできるのか。驚くべきことに学生と呼ばれる人は「飽きさせないために」という基準を口にする。飽きられている、と思うことが恐怖なのだろうか。あるいは自分の内にある「飽きる」と呼べるような心情の変化が恐ろしいのだろうか。サーヴィス業の特殊な思考が前提されている。そういうときに「『飽きる』とか『飽きない』ということで何かを選択することを、一度保留してみませんか?」という誘惑の言葉を投げることは、意味のあることだと思っている。一つの何かをじっと見ることが備わってないのだから仕様がない。そして、この星の、この国の、この時代の、たとえばこの都市の生活において、そうした感覚が、知覚の仕方が備わっていないことを当然のことであると思う。自分だって、それはそうなのだ。膨大な情報量の(それを情報と呼ぶかどうかはさておき)テレヴィジョン、雑誌、音楽を、そして今ならばネットワークに接続された生活の形式で、それらの情報を貪る自分にとっても、飽きる/飽きない、とは別の基準を持つことは難しかったはずだ。


・飽きる/飽きない、という思考の枠組みが(無自覚に)設定されている意識に「詩的なもの」が立ち上がることはない。正しくは「飽きられるから、こうしよう」というような考え方をしない。こう言うと「自由ということですね」とか「純粋ということですね」と「解釈」されて、酷い場合は「自分の感覚だけということですね」「独りよがりではないですか」と「返答」されるかもしれない。全然違うことだと思います。表現することの基本だと自分が考えることは「大切だと思うことは繰り返し表す」ことで、その大切さや繰り返し方が吟味されることが許されている、という意味において「自由である」ことが「言える、かもしれない」ということだ。


・同様に「詩的なもの、ってなんですか?」という素朴な、素朴であるがゆえに恐ろしい質問にも返答できるような準備をしておかなければいけないのだと思う。ともすればその質問は「詩的なもの、ってそもそも必要なんですか?」という意味のことを潜ませているのだから。それには、こう答える準備をしておこうと思う。「『詩的なもの』という曖昧な言葉で自分が考えている領域は、個別的なこと=人がその人でしかなくて他の人と取り替えが効かないこと、と共有的なこと=他者と触れて何かしら同じであると感じられること、という二つがどういう関係であるか、どのように混在、両立、重なりさっているか、ということを思考するためのフィールドのことを、仮に『詩的なもの』と言っている。そして自分はその領域は意識されないと、誰も見過ごしてしまう可能性があるのだし、しかし同時にふと誰もが考えることでもあると思うのだから、そして何より自分はそれを大事なことだと考えて、ほとんど人間の基本的なことであると考えているのだから、そのことに関わる表現をよりよく受け止め、それについて考えて、時に話し合いたいのです」と。気がついたらそれは『SELF AND OTHERS』について、つまり、「自己と他者」について、だった。


・だから今の自分は、恐ろしくゆっくりとした、たとえば風景の、空き地の一本の木が在ることを写した映像を見せるだろう。もしも耐えられずに眠ってしまっても良いのだ。席を立つのではなく、スマホに手を伸ばすではなく、頭の中で全然違うことを考えようとするのでもなく、映像が、動く絵と音が身体に侵入する事態に、せめて身を任せてみようと思うかどうか。本当はただ風景を見るような、風景を見たくて移動するような欲望を宿して欲しいと思うが、それはなかなか困難なことであると思う。「ひとり旅に出てみてください」「しばしスマートフォンを使わないでみてください」もまったくの時代錯誤感がある。「そういう現実に生きていないですよ」と返されるのではないかと考えてしまう。


・風景を見ることについてだった。自分は今でも時々そうした瞬間に遭遇することがある。それはきっと90年代に見た多くの「写真」の印象が自分の知覚の仕方に影響しているからなのだと思う。しかしカメラを取り出す速度が遅くなっているのだ。そしてカメラが道具になってくれない感覚がある。ペンタックス67に90mmレンズは今のところ一番近しい。それを持って、もっとたくさん歩いてみようか。


・風景はそれ自体、が一つの意味を持つのではない。映画における編集で危険なことは「この風景のカットを入れることになんの意味があるのか」という問いを発生させてしまうことにある。カットに意味がある、というテーゼはそれ自体が固有の事態の中で掘り下げられていくべきだと思うが、風景には、一つの言葉に還元できるような意味はない。あるいは「風景」と「風景でないもの」を当たり前だが、簡単に区分することはできない。「どのような現実に存在しているのか」「どのように存在しているのか」ということを、カメラを用いて、どうすれば描くことができるのか?という問い。あるいは、「どのような現実に存在しているのか」「どのように存在しているのか」ということに、カメラを用いて、どのようにして近づくことができるのか。人間のあらゆる活動が、映像で撮影される可能性がある。そう考えるならば、1895年も2018年も変わらないのかも、しれない。


・中断。