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  映像研究

日記のような

 
・月曜日。今日は図書館が休みだったから自宅で作業。涼しくなれば家で作業するのもそれはそれでよい。ほどよい緊張感とリラックスの間。昨日は一日完全に労働にやられてしまった。どんな些細な労働も労働であるからには「命をすり減らしている」という実感がある。労働と肉体についてそれほど簡単に解決することはできない。労働が労働であることにおいてたぶん誰もが「こんなことは長くは続かないのではないか」と思っている。たぶん。そのことによって共闘、協働?することができるのか。それでも去年の今頃に比べたらかなり「ましな状況」ではあるという、これは実感。


ジャン=リュック・ナンシーは心臓を移植したことから「侵入者」の問いを考え(生き)はじめたということを読んだ。そういうこともあるのか。色々なことがものを考え始めるきっかけになりえるのだということを知る。人が生きているということを不思議だと思う。


・PIZZICATO ONEの『わたくしの二十世紀』というアルバムをamazonで注文して、届いたから聴いている。データでも購入はできる。でもCDを欲しいと思ってしまった。CDをPCに入れたならばデータを読み込む。ところでこれはデータをダウンロードしているのと同じではある。鍵(キー)としてのディスク。「中に何かが入っているわけではない」。「中に何かが入っている」とは何のことだったのか?「入って『いる』」とは何のことを言っているのか。問いは尽きない。鍵はそれ自体が物であり少し変なものである。


・『わたくしの二十世紀』を聴いていて、こういう音楽のイメージを何と表現できるのか。あるいはこういう写真のイメージ、こういう映像のイメージ、の「こういう」を何ということができるのか。「静かな」「穏やかな」「少し悲しい」「満たされているような」気持ちでいるようなイメージは秋の季節と重なり合う。「物をよく見ようとすること」と「解像度が高い」ことは全然一致しない。つまりそこでは「それは物をよく見ようとしてなどいない」という批判がやってくることも想像される。その批判にあらかじめ反論しておく必要があるのか。面倒だと思う。