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  映像研究

断片的な事柄、この間の事柄、考えた事柄、普通の事柄

  
・「専門家」という考え方がわからない。それは自分が特に何の専門家でもないからなのか。何の専門家でもないと思っているからなのか。技を持つ人としてのプロフェッショナルを(多くの場合)尊敬した上で、生活を成り立たせる糧を絞り込むという意味でのプロフェッショナルを(場合によっては)羨ましく思った上で、しかし例えば「芸術」のことは「芸術家」が考えるべきであるとか、あるいは「政治」のことは「政治家」が考えるべきことであるとかいうことがよくわからない。むしろ少し気を抜くと「あらゆることは『芸術』である」「あらゆることは『政治』である」という言葉が口をついて出てしまいがちで、しかもそれがレトリックではなくて本当にそのように考えたりしないこともないような(それを暫定的に区分けするために例えば鶴見俊輔『限界芸術論』を参考にしたりした)自分にとっては、むしろ「何か(ex芸術)と『関係がない』」とか「何か(ex政治)に『興味がない』」という言葉の方がレトリックに思えてしまう。だけれどもまぁ「興味がないよ」と言っている人に対して「いや、あなたは本当は興味があるのです(そのことが私にはわかるのです)」と言うことも微妙だ。しかしとりあえず「専門家」という概念で考えていない人に対して、別の人が「専門的なことは専門家に任せた方がいいよ」という言葉を投げかけた結果として双方が「話が噛み合ないなぁ」と思うことがあるような気がする。というこれはこの数日で考えたこと。



・多くの普通の人(って誰だろう)と同じように(という注釈を付けた上で)自分は「ポストモダン」あるいは「ポストモダニズム」という言葉を普段は大抵、超適当な意味で、極めてカジュアルに、何となくクリスタルに使っている。しかしながらこの期間その言葉の正確な意味について考えることということもした。そしてそれは世にも大変だ。世にも大変なので適当に考えて適当に記す。ある著名な社会学者?思想家??が2008年に出版された対談本で書いていた「ポストモダニズムというのは、政治的には本質的に現状肯定しかできないロジックのはずです。それはあらゆる理念を脱構築するからです。」という言葉を読み直して「そうなのかぁ」と思う。もしもそれが「ポストモダニズム」なのだとしたら、とてもじゃあないけれども自分にはそんなことはできないと思う。どうにも大変そうだ。そんな「大変なこと」を何故しなければいけないのだろうとも思ったりしないこともない。そしてあるいはそのように「考えが一貫している」ことは何なのかとも考える。考えた上で例えば自分はそこで「現状を肯定したかったら肯定して、否定したかったら否定する」だろう。そして否定したいと思った事柄に関して「その現状を変えるために関われそうだったら関わって、どうにも無理そうだったら見ている」という態度を取りたい。と書いてみて、それがあまりにも当たり前のことであることに意味がわからなくなる。それは何というイズムなのか。少なくない「普通の人」が採用しているであろうその態度を何と言うべきか。



・なるべくならば「仮想敵の人」を連れて来ない方が良いが、自分の考えをトリートメントする上でやむを得ず連れてきてしまうこともあるのが事実です。ところでこの数日3人以上の人間が集まったならば上記のようなことを話す「しゃべり場」がいつでも/どこでも立ち上がる。その場には時折「仮想敵の人」が連れて来られるが、その人は仮想なので喋らない。あるいはパート・タイムなロール・プレイとして誰かが「仮想敵の人」を演じてみる。想定される反論としての「仮想敵の人」。例えば「原子力発電所」について数人で意見を交換しているときに、偶然にもその場にいた全員が「原子力発電所は無い方が良いなぁ」「無くすためにできることをしたいなぁ」と思っていたのだったら、その意見を相対化してみるために違った意見を持っている人に(ヴァーチャルに)ご登場願いたい。そしてその人の考えていることをなるべく肯定的に(気を抜くと罵倒しそうだから/ヴァーチャルだから)想像してみたい。例えば数日前に備忘録した時のヴァーチャルな人は原発やエネルギーの問題に対して気持ちが良いくらいストレートに「日本は変わらないと思いますよ」と仰っていたけれども、この週末には新しい人を紹介してもらった。その人は「これだけ大変なことが起こった/起こっているのだから、きっと日本は良い方向に変わるでしょ」と言う人らしい。原子力発電所には基本的に反対だけれどもデモとかには行かないしどちらかといえば苦手のようだ。さて、この人と実際に会ったならば何を話そう。何かを話してみたい。



・『朝日ジャーナル』の「日本破壊計画」に掲載されている宮台真司という人の『日本社会の再設計に必要な思考 各問題の射程を見極め全体に到れ』という文章を、線を引きながらもう一度読んでみたならば前に読んだときよりは少しは書いてあることが理解できたような気がした。ちょっと読めない部分もあったし、納得しづらい部分もある。中盤の「真の右翼」の部分は単純に知らなかったので「そうなのだなぁ」と思いつつ、あるいはまた「『いい人』だけでは『世直し』はできない/ずるくなければいけない」という部分を読んだならば自分は「いい人」と「ずるい人」がそれぞれどのような人なのか見分ける自信が全くない。そしてミルトン・フリードマンという人のくだりはやっぱりどうにも受け入れづらい。バウチャー(教育クーポンや医療クーポン)という物も、よくわかってないなりにとりあえず無いに越したことはないと思っている。しかしながら文章全体的には「政治への意識を持つこと」「公共性」について非常にわかり易く書かれているいうことがわかった。ちなみにまさかのネグリ&ハート『ザ・コモン』が(否定的な意味ではなくて)ちらっと出てくるのも興味深い。ひとつの論考を何度も/何度かに分けて読んでみると、またわかることがある。

■小泉自民党的「国家から市場へ」でもなく、小沢待望論を含めたバックラッシュとしての「市場から国家へ」でもなく、「市場/国家から、共同体へ」「経済/政治から、社会へ」「効率/再分配から、相互扶助へ」「『任せる』から、『引き受ける』へ」が、必要です。


■市場の効率性や再分配の合理性にも増して、なぜ相互扶助が大切なのか。私が思い出すのはアリストテレスです。彼は2500年前に「良い社会とは何か」を論じています。それによれば「良い社会」とは、豊かな社会でもなければ、犯罪が少ない社会でもありません。(略)「良い社会」とは、徳のある者が溢れる社会のことです。徳(ヴァーチュー)とは「内から湧き上がる力」です。いわば自発性ではなく内発性。損得勘定で何かを選ぶのは自発性で、損得勘定を超えるものが内発性です。


■徳=内から湧き上がる力は、人びとの尊敬尊重(リスペクト)を集め、感染的模倣(ミメーシス)の輪を拡げます。そのようにして最大限の社会成員が有徳=内発的な振る舞いをするようになった社会こそが、アリストテレスによれば「良い社会」です。(略)アリストテレスは加えて重要なことを言います。有徳者は必然的に「良き社会」を実現しようとして政治に関わろうとするのだと。自分が有徳者になるだけでなく、最大限の人が有徳者になる社会を実現するのだと。有徳性には他者の有徳化が含まれるのだと。


■そして今日の政治哲学ないし公共哲学は、なぜアリストテレスの「良き社会」に回帰せねばならぬのか、なぜ「徳=内から湧き上がる力」ゆえに「政治=みんなに関わる決定」を「引き受け」ようとする者を増やすことが「政治」たるべきなのか、を論じる営みなのです。