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  映像研究

7分丈か8.5分丈のTシャツと、その周辺の色々なこと

 
・ある日の電車の中でのこと、その時自分は7分丈のTシャツを着ていたのだけれども、ちょっと汗が冷えてきて肌寒かったものだから、その上にシャツを羽織ろうとして、こういう時に長袖のTシャツを着ていたのならば、シャツを羽織るときに袖が引っ張られて捲れ上がらないように、長袖のTシャツの袖口のところを握りながら着るのだろうけれども、7分丈のときは、握るにしては手首から距離がありすぎるのだし、かといってそのまま着てしまえば、肘の上の辺りまで袖が捲れ上がってしまって、何とも気持ちが悪い。そもそも自分は腕が人よりやや短いのか「7分丈のTシャツ」を着ても、大体8分か8.5分丈くらいのかんじになってしまうので、7分丈なら諦めがつくかというものの、8.5分丈ともなると、ああ、もうちょっと、もうちょっとで袖が掴めるのに、という微妙な距離感にいつも戸惑いながらシャツを羽織ることになる。だから自分には「7分丈のTシャツ」は向いてないのかもなぁ。



・とそんなことを考えたり考えなかったりしていた車内でふと、ああもしかしたらこういう事柄を人は「twitter」や「mixiボイス?」に(もう少し簡潔にまとめて)アップロードする、つまり「つぶやく」のではないだろうか、と思った。『7分丈のTシャツの上にシャツを着るときは袖を握るべきかいつも困る』とかいう風に。このつぶやきが面白いのかどうかはともかく、そのとき自分には「つぶやき」には「つぶやき」なりの思考のサイズとかスピードとかいうものがあるのだろうということが何となくわかった。別に実際に「つぶやき」ませんでしたけども。



・そして電車に揺られて職場に着いて、その日は業務の中で「詩」について考えなくてはいけないような日だったのだけれども(それだけ記すと一体どんな業務なんだろう?)、そこで自分は、主に2〜3年くらい前から最近まで「現代詩」と呼ばれるものを気にして見ていた時期があって、そこでは積極的に「壊れた言葉」「脈絡のない文章」こそを探して読んでいたこと、そしてその「壊れた/脈絡のない」というのは、自分の解釈だと「コミュニケーションのための道具/テクノロジーとしての用途から外れた言葉」であって、言葉の機能を転用したり、意図的に誤用したりすることで、(言葉があることによって自動的にされてしまう)思考の可能性を拡大するものであったのではないか…云々。そんなようなことを話し合っていたりしたときに、「でもそれってtwitterの膨大なつぶやきでやられてることなんじゃないの?」と返されて、そうか、そうなのかもしれないな、うん、そうですね、確かに、と思いつつも、それが全く同じ行為かといえば、そうであるとも思えず、とりあえず考え続けている。



・しかし、いつだって「コミュニケーション・メディア」と、それをハックする「コンセプトを提出するためのアクティヴィティ」はどちらもがお互いを引っ張り合うかたちで進行しているように思える。例えば、もうこれは10年以上くらいに前のこととして考えるべきであろうけれども、ウェブの機能としての「ハイパー・リンク」が新しいというテクノロジーとして現れたときに(言葉にするのが難しいような)快感と(言葉にするのが難しいような)不安を感じたのならば、その感覚をきっかけとして、そのテクノロジーを極端に、ある意味では暴力的に押し進めたような、メディア・アートや電子音楽インタラクティブな映像作品のようなものが作り出される。しかし、その一方で「はてなダイアリー」のようなものは、全然普通のことのように「あらゆる単語にリンクが張られている日記」なんていう、冷静に考えれば「ちょっと頭がおかしくなるんじゃないか」というようなメディアを、あくまでも全くの「コミュニケーション・メディア」として作り出してしまう。そしてそれはもう、今では何ていうこともないメディアとして、ただあるのだ、というようなこと。



・「壊れた言葉」「脈絡のない文章」に未だ興味を持つ気持ちがある一方で、その延長線上であるものの、今はそれとは少し違ったことを考えていたりもする。そしてその「かんじ」は、ある言葉の使い方がそのときの自分にしっくりするかどうか、というような意味で、無意識に近いものであるという意味で、とても「モード」というのに相応しいような、何かなのかもしれない。だから「あらゆるものにリンクが張られていることを体現するような、脈絡のない言葉を書き散らかすようなモード」は終わりつつある(もう終わった)のだ、とか当てずっぽうで考えてみることも、あながち的外れでもないかもしれない(でもあるいは「押し進めた」結果として別のものになってしまったと考えるべきかもしれない)。そしてその「言葉のモード」と「テクノロジー」やあるいは「経済」みたいなものが、どのように関係しているのか、というようなことについては、もう自分の思考できるフレームを遥かに越えたような事柄ではあるものの、予感することだけはできる、ような気がしないでもない、のでその「予感」には敏感でいたいなと思う今日この頃。だって、もしもそれがそのようであるのならば、例えば「雑誌の休刊が続いているのはこの不景気が原因だ」なんていうことも簡単には言えなくなってしまうかもしれないんじゃないか。というような予感。