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  映像研究

水曜日は餃子を食べた。木曜日は餃子について考えてみた。

 
・火曜日にノートを買って、水曜日は餃子を食べた。テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャ……というようなロシア民謡にならって、極めて牧歌的な、いわゆるひとつのスローなライフを実践している、というつもりも別に全然ないのだけれども、いざ備忘録に書くこととなるとそのようなことになるので、多分そのような生活なのだと思います。


・餃子といえば、水曜日に食べた餃子は荻窪駅ちかくの美味しそうな餃子専門店にて購入したもので、こぶりの餃子5つで300円、というのは(生活者の目線?的なものからすると)多少、なかなか良いお値段だとも考えられないこともないけれども、そのことと特に関係なく、ここ最近家で食事をつくって食べる生活をしていて気がついたことは「ひとりで暮らしていて餃子を作るのはコスト的にもテンション的にもかなり難しい」ということであって、そういえば学生の頃に周囲の一人暮らしの友達はかなり何度か(頻繁にというほどでもないと記憶しているけれども)集まって、餃子をつくって食べていたなぁ、ということを思い出しつつ(そしてそういったことは往々にして「餃子パーティー」と呼ばれたりする)、しかし当時実家から通学していた自分にとっては「ほう、餃子パーティー、それは、また、結構なことで…」くらいの程度のプライオリティだったけれども、今考えてみると「餃子パーティー」かなり良いなぁと思う。


・他の料理にはない「仕込む」かんじ、中に色々なものを入れるのも楽しいし、それが出来上がって蒸し焼いているふたをとったときの「わぁ」っというようなリアクションとかも良い。しかも焼き餃子だけでなく水餃子も…とか色々アレンジできるあたりも素晴らしく、そう考えてみれば、一般的に例えば「鍋」というのはかなりコミュニケーションの「場」をつくる料理だと考えられているし、自分も確かにそうだと思うけれども「餃子」だってなかなかコミュニケーション的な料理だ。しかも鍋と違って「つくる」ことと「食べる」ことの間に「時間」があって、そのことに(魔法がかかるような)面白みがあることを考えると、それはまた別の種類のコミュニケーションが成立しているのでは…?というような若干偉そうな講釈的なことだってたらしたりしてしまうのは、困ったことに餃子は誰がどのようにつくっても大抵美味しいからなのではないかと思う。


・そんなことを考えつつまだ見ぬ「餃子パーティー」に思いをはせているけれども、もちろんここで言う「餃子」は「餃子というもの」についてであって他の何でもない。しかし2008年のこの国においては「中に色々なものを入れるのも楽しい」とか「餃子はコミュニケーション」とかいう言葉が、別の、不適切な冗談とか、特に面白くもないメタファーとも捉えられかねない、という可能性がなきにしもあらず、ということを少しだけ思い出す。しかし、とりあえず「餃子というもの」が食べたい。しかもつくってみたい。